いつの時代にも、どこにあっても
ルカによる福音書 24: 44 – 53
インターネットやスマートフォンの普及によって、動画が広く一般化しています。
若い人の間では自分の日常を撮影したり録画したりしてSNSに載せることは一般化していますし、事故が起こった時などその様子を一般の人が撮った映像がテレビで流れたりします。映画化が難しいだろうというどんなに不思議なお話もCGを使って映像化されるのです。文字によって伝えられ人の頭の中でイメージされていたものが今ではダイレクトに映像で伝えられ理解されるのです。その意味で、私たちは自分で想像したりイメージしたりすることがだんだん出来なくなってくるのではないかと思います。
昔の人々はどうだったのでしょうか。昔は、現代のような映像技術はありません。情報の伝達方法はもっと素朴でした。聖書を見ると夢や自然現象なども事柄を伝える大きな出来事のしるしとして大切に考えられていたようです。創造力やイマジネーションというものも豊かでした。たとえば創世記の最初の創造物語など、この世界がどのようにして造られたのか豊かな想像力と啓示によって書かれていると言っていいと思います。
聖書は神の世界を「天」という言葉で表現しました。神の住まいは天にあり、地上を神の足台と表現しました。天と地、と考えると、当然それは、天は上にあり、地は下にあると考えます。空間的な位置関係があります。イメージとしても登ったり降りたりというイメージになってしまいます。旧約のヤコブが夢を見た時も、先端が天にまで達する階段が地に向かって伸びていて、そこを神の御使いたちが上ったり下りたりしていました。新約のヨハネの黙示録は、地上の世界が滅んで、新しい世界が完成するというところで終わっています。それを「新しい都が天から下ってきた」と表現しています。やはり神の世界は天で上にあり、人間の世界は下なのです。しかしこの場合は、人間の世界が地上に再生されるのではなく、すべてが神の世界であり、神の世界に復活した聖なる民が入るという約束になっています。
今日は昇天主日です。復活のイエス様が弟子達の目の前で天に昇られ見えなくなったという出来事を覚える日です。しかしこの日は単に不思議な出来事を覚える日というのではありません。昇天という出来事の意味、そして同時に語られる聖霊降臨の約束と世界伝道への約束語られるのです。
わたしたちは礼拝の中で二ケア信条を唱えますが、ニケア信条では「見えるものと見えないものの造り主、全能の父である唯一の神をわたしは信じます」と告白しています。見えるものと見えないもの、私たちは見えるものだけでなく、見えないものも存在することを信仰告白の中で認めているのです。しかし、実際には実際にはどうでどうでしょう。見えるものに心を奪われ、頼りにし、見えないものを軽んじて生活しているのではないでしょうか。軽んじるだけならまだしも、あたかも存在しないかのように考えてはいないでしょうか。聖書はそのような私たちを戒めるかのようにイエス様の昇天の出来事を伝えます。「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」もしこれが現代であればあらゆる科学技術をもってそれを追跡し続けるかもしれません。しかし大切な事は、見えなくなったことの意味です。
復活の主イエスは、そのお姿はすでに神的な存在でしたが、まだこちら側におられたと言っていいでしょう。弟子達の前に現れ、弟子達に語り、弟子達と食事をされたと言っていいでしょう。弟子達の前に現れ、弟子達に語り、弟子達と食事をされていたからです。しかしこの昇天の出来事の後、彼らはイエスれていたからです。しかしこの昇天の出来事の後、彼らはイエス様様の姿を見ることはできません。ただ、パウロの回心の時、パウロはそのみ声だけは聞くことができました。しかしその姿は現わされません。その意味でイエスさまは昇天によってすっかりあちら側に行かれたのです。わたしは今こちら側とかあちら側という表現を使いました。これは日本的には此岸とか彼岸とかいうのかもしれません。いずれにしても人の生きている世界と神様の世界です。しかしこのイエス様の昇天は、あちらとこちら、此岸と彼岸のその境を渡られた、いや、越えられたというよりは、イエス様によってその境と隔たりがなくなり、一つとされたということではないでしょうか。かねてからイエスさまはご自分を父に至る道といわれていました。それはイエスさまが通られる道ではなく、イエス様ご自身が道となって私たちを父なる神なる神様とひとつとしてくださったのです。その境と隔たりが取り払われたことは、過去と現在と未来という時間や場所をも越えられたということです。だからこそ、私たちはイエス様の出来事を過去のこととしてではなく、現在のこととして、これからも起きることとして受け止めることが出来るのです。
人が天に召されるとき、お葬式のときには、特に生きている者の世界も死んだ者の世界も、そして過去も現在も未来もイエスさまによって一つとされていることが、ことのほか強く感じられる時でもあります。これが見えなくなったことの意味です。弟子達はイエスさまが見えなくなって、さらに失望と絶望に突き落とされたのではなく、希望へと入れられたのです。
使徒言行録によると、イエス様は天に昇られるとき弟子達に言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」昇天は、神様と私たちが一つとされた完成の時でもあります。しかし、それは人々に伝えられなければなりません。伝えられなければ自然にわかることではないからです。そこで弟子達の力が必要となります。しかし弟子達には、それを知る力も伝える力もありません。弟子達は、赦されたとはいえ、イエス様を裏切った時の姿のままだからです。そのような弟子達が、イエスさまの十字架と復活、そして昇天の証人になるには聖霊の働きが不可欠なのです。聖霊の働きがあって初めて証人となることが出来るのです。
この証人としての務めは私たちにも与えられています。こう言うと、いや私たちはイエス様とお会いしたことがない、十字架の死も見ていない、復活にも昇天も目撃していないと言いたくなります。先のことを思い出してください。イエス様は、時間と場所の垣根を取り払い、神様の世界と私たちを一つにして下さいました。従って聖書によって示されていることは、今私の目の前で起こっていることであり、わたしに起こっている出来事なのです。だからこそ私たちはこれを信じる時、イエス様の証人となることが出来るのです。