2024年5月5日 説教 松岡俊一郎牧師

イエス様の掟ー愛し合う

ヨハネによる福音書 15: 9 – 17

新約聖書では「愛」という言葉がたくさん出てきます。ギリシャ語では愛は、神の愛を指すアガペー、人間同士の愛を指すエロス、友情を示すフィリアというように三つありますが、新約聖書では中でもこのアガペーという言葉を116回も使っています。さらにヨハネ福音書とヨハネの手紙は、この愛という言葉を強調しています。旧約聖書においては、愛は律法で「隣人を愛さなければならない」掟でした。これを守らなければ罰せられる、滅ぼされるのです。しかし、新約聖書ではこの愛は、キリストに根差す新しい掟として示されるのです。

ご存知のように、キリスト教が世界宗教となったそのきっかけは、使徒パウロの外国人伝道でした。使徒パウロは熱心なユダヤ教徒、更に言うならばキリスト教徒にとっては恐ろしい迫害者でした。そのパウロが復活のキリストと出会い、熱心なキリスト者に回心するのです。その真相は聖書を読んだだけではわかりません。回心は人にはわからない宗教体験です。ある神学者は、ステパノの殉教にその鍵があると言います。パウロは熱心なユダヤ教徒でしたから、律法を守ることが何よりも大事、律法を守ることによって人は救われ、守らない者は裁かれると考えていました。そこには同情の余地はありません。自分の救いだけが大切、他者の罪や滅びはその人の責任なのです。ところがステパノは迫害で石打にあいます。その死の間際、彼は「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と叫び絶命するのです。もちろんステパノにとっては十字架上のイエス様自身が語られた言葉に導かれた信仰と言えるでしょう。しかしパウロにとっては、自分の死を前にしても人の救いを祈るとはいったいどういう事なのか。パウロがこれまで思いも呼ばなかった信仰に出会い、パウロはこの人の救いのために犠牲になる姿に捕らえられ、引き込まれていったというのです。

「自分を大事にする」という事が言われます。与えられた命、一回限りの人生、人生という限られた時間、与えられた能力や可能性などを生かすような生き方をしよう、人に左右されるのではなく、人に追随するのでもなく、自分自身の生き方を見つけ生きようということだと思います。それは健全な個人主義、自己実現です。しかし、この基本的な人権さえも内的にも外的にも脅かされています。内的には、自分という存在が確立できない精神状態です。いつも人の目を気に、人に合わせることがあたかも自分の生き方のように考えてしまうのです。しかし、この自己の確立が十分でないと、大きなストレスがかかった時、精神的に不安な状態を生み出してしまうのです。もう一つは、外的な力です。人の命、生存の権利が軽んじられ、全体のため、国家のためには、個人の権利は制限されても仕方がないのだという風潮が芽生え始めています。

聖書には確かに自己中心を罪とし、「自己犠牲」ということが底流に流れています。しかしそれは自分を失くすことではありません。そこではまず神様との関係、神様の事柄として考えなければなりません。神様は私たちがまず一人の人間として、自由に喜びの中で生きることを願っておられます。それは自分を大事にすることで生かすことです。この生かすということが愛に生きることと深く関わっているのです。なぜなら神様によって自由にされた心から自己犠牲的な愛が生まれ、他者への奉仕が生まれてくるからです。自由のない愛と奉仕は、それは義務であり強制です。それは愛や奉仕とは呼べないものです。そこには喜びはなく、不安と恐怖しかないのです。使徒パウロや宗教改革者マルチン・ルターはそれを律法と呼んでいます。

弟子たちはイエス様の十字架によって真実の愛とはどんなものかを目の当たりにし、深く心に止めたのです。ヨハネの第一の手紙4章では「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」というのです。

イエス様は「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われます。そして「友のために命を捨てること、これ以上の愛はない」と言われるとき、そこには神様自らが独り子イエス様を十字架にかけて人々に愛を示しておられます。「友のために自分の命を捨てること、これほど大きな愛はない」との言葉は、「わたしのためにイエス様が自分の命を捨てられる、これほど大きな愛はない」のです。この愛を知る時、私たちは戒めの呪縛から解き放たれます。いつのまにかクリスチャンが自分たちに課してきた「愛さなければならない」という律法から、人を自己犠牲と他者への奉仕という呪縛から解き放つのです。愛は人を自由にします。個人を尊重します。そして自由な者として、それも神様から愛された自由な者として、神様の愛を証することができ、奉仕することができるのです。パウロはガラテヤの信徒への手紙5章13節でこう言います。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕え合いなさい。」

このような神の愛によって自由にされた私たちから生まれ出る行いや生活こそが、神様が求められる実りであるのです。神様はこの愛の実践をするために私たちを選んでくださいました。人に強いられてではなく、神様の愛に触れ、愛に促されて行うように選ばれたのです。信仰による愛の行為はこのように自由と喜びを伴うのです。