復活の証し
ルカによる福音書 24: 36b – 48
キリスト教にとってイエス様の十字架と復活は中心的なもので、これを抜きにしては語ることが出来ません。しかしそれは誰もがすぐに信じられるかというとそうではありません。今日の福音書の個所は、先週に引き続いて復活のイエス様が弟子たちの前に姿を現わされた出来事を伝えます。別の言い方をすれば、それは復活を信じられない弟子たちの疑いと不信仰を現わしているとも言えます。
今日の日課の直前には「エマオ途上」と呼ばれている出来事が書かれています。二人の無名の弟子がエルサレムからエマオという村に向かっている途中、彼らがイエス様の十字架の出来事について語り合っていると、一人の人が近づいてきて、その話は何だと問いただし、彼らはイエス様が十字架にかけられたという話をします。夕方になったので二人はその旅人に一緒に泊るように誘い、家で食事をする時に、食事の祝福の姿を見て、二人の弟子はそれが復活の主であったことに気がついたという出来事です。この二人の弟子は、それから取って返してエルサレムに帰り、他の弟子達に報告するのです。その報告の最中に、イエス様が突然姿を現わされます。他の個所で書かれているように、彼らは家の扉の鍵を閉めていたのだと思います。それなのに、突然イエス様が真ん中に立っておられる。弟子達は亡霊と思って恐れおののくのです。そこで、イエス様は言われます。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエス様は手と足をお見せになりました。それでも彼らが信じられないでいると、「ここに何か食べ物があるか」と言って、焼いた魚をむしゃむしゃと食べて見せられました。
復活のイエス様の姿は、私たちの考えを超えたものです。エマオ途上では弟子たちはイエス様と話しながらも、それがイエス様だとは気づきませんでした。また、鍵をかけた部屋に突然現れたり、その傷跡を触ってみなさいと言ったり、魚を食べて見せられるのです。復活の主の体は、確かめられるのか、確かめられないのか、実態があるのかないのかわかりません。このように復活は、存在の様態、姿かたちで捉えられるものではありません。復活の証言をいろいろ聞いても、謎が深まるばかりで、私たちを混乱の渦の中に巻き込みます。復活は、私たちが考える現世の理解の延長で理解できるものではないのです。
それでは復活をどのように受け止めたらいいのでしょうか。
椎名麟三というキリスト教作家の事は皆さんもお聞きになったことがあると思います。労働運動の中でいわゆる「赤狩り」で警察に捕らえられ、獄中でキリストと出会い、信仰者の道を歩んだ作家です。彼にとって復活ということは、大きな疑問であり、課題でした。死んだ人が生き返るなどどう考えても信じられなかったのです。そんな彼が獄中で聖書を読んでいた時に、ルカ福音書の復活のイエスの記事を読み強い衝撃を受けるのです。死んだはずのイエス様が、弟子達の前に現われ、自分の傷を見せ、信じない弟子たちに焼いてある魚をむしゃむしゃと食べて見せられる、今日の個所です。その姿に椎名麟三は愕然とするのです。そこには絶対である生と絶対である死とは無関係に存在するイエス様がいたからです。人は生と死の絶対の中に生きています。その中であくせく働き、苦しみ、悩み、少しでも生き甲斐を見出そう、喜びを見出そうとします。そこには自由がありません。ところが復活のイエス様は、生からも死からも束縛されない自由な存在としておられるのです。生と死から自由になる。これは私たちにとっては大きなメッセージです。なぜなら私たちは生と死に縛られているからです。縛られている割には、生も死も私たちの自由にはなりません。特に死は私たちが意識を持って迎える者ですから、様々な恐れや不安など感情が沸き起こります。ですから私たちは死に支配されていても過言ではありません。しかしイエス様はその死に勝利されているのです。生と死を超えた存在として弟子たちの前に、そして私たちの前におられるのです。この主の復活を信じる時、私たちも死を超えて永遠の命に生きることが出来るのです。そこではもはや不安や恐怖はなく、自由と平安があるのです。
それではどのようにしたら復活を信じられるようになるのでしょうか。45節を見ると、イエス様は聖書を悟らせるために弟子たちの心の目を開かれています。弟子たちも私たちの考えも、確かめられることを是とし、確かめられないことは受け入れられません。従って復活という確認できなことは、心の目を開かれない限り、悟ることはできないのです。イエス様の十字架の意味、復活の真実、罪の悔い改めの宣教は、神様が主導権をもって示されます。それを信じることが出来るのは、聖霊降臨です。弟子たちは様々な復活のイエスと出会い、証言を聞きました。しかし本当に彼らが変えられるのは、聖霊が与えられてからでした。復活は聖霊によって悟るものなのです。その意味で、礼拝も洗礼式も堅信式も、就任式も按手式もすべて聖霊を求める祈りであり、聖霊が与えられることを約束するものです。今日は教会学校の教師就任式も行います。これも先生方に聖霊が働きその務めを果たしていただくように祈るのです。
イエス様は、弟子たちに聖霊と共に使命を与えられます。十字架の死と復活を通して実現した救いが、すべての国々の人々に宣べ伝えられると言われます。復活を信じられなかった弟子たちも、みことばを携えて福音を世界の人々に伝える者へと変えられるのです。