知っておられる
ヨハネによる福音書 1: 43 – 51
私たちは人と出会う時、いつも心を開いて出会うわけではありません。その人がどんな人か前もって聞いて情報を得たり、しばらく観察したりします。そしてなにがしかの印象をもち、判断をします。その時に先入観や偏見も交じります。ありのままにその人を受け入れることが出来るならば、それは素晴らしいことですが、なかなかそうはいきません。私たちの心の罪、嫉妬やライバル心が働くこともありますし、自分の弱さを防御することもあるのです。しかし先入観や偏見に支配されると、大事な出会いを台無しにしてしまう事もあるのです。
今日の福音書の日課には、ナタナエルという人が登場します。この名前は12弟子の中には出てきません。12弟子にバルトロマイという人がいますが、この人が同一人物ではないかと言われています。まずフィリポという人がイエス様と出会います。このフィリポは12弟子のひとりです。イエス様が「わたしに従いなさい」と言われると、フィリポは素直に従います。そしてフィリポがナタナエルに「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている人に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と言います。するとナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったのです。ヨハネによる福音書21章2節によると、ナタナエルはカナの出身だと言われています。カナとナザレは10キロほど離れた隣町です。隣町は仲が悪いと言いますから、近くの町だからこそ対抗心があったのかもしれません。フィリポはナタナエルと議論することなく、「来て、見なさい」とだけ応えます。あれこれ説明するのではなく「会ってみてよ」という感じです。「百聞は一見に如かず」ということわざがあります。どんなに前情報があったとしても、直接その場に行って、あるいは直接出会って知る印象には嘘はありません。この出会いをナタナエルは経験するのです。
イエス様はナタナエルが自分の方に来るのを見て「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人に偽りがない。」と言われます。「まことのイスラエル人」というのは大変な誉め言葉であったのでしょう。ナタナエルは「どうしてわたしを知っておられるのですか」と答えます。初対面であるのだから疑問に思うのは当然です。イエス様は「わたしはあなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た。」と言われました。当時の人は、大きないちじくの木の下で本を読んだり、ユダヤ教の教師が話すことを聞いたりしていたとも言われています。とにかく誠実で熱心なユダヤ人であること、あるいはそれ以上のことを悟られたのかもしれません。ナタナエルがイエス様と出会う前にナタナエルは知られていたのです。イエス様のまなざしはナタナエルの偏見や先入観を超えていたのです。
このことは私たちに大切なことを教えています。私たちもイエス様と出会います。それは幼児洗礼を受けている人は親を通して、教会学校を通して、あるいは友人を通して、また書物を通して、いろいろな出会いがあります。そして多くの場合は、私たちは自分の意思、自分の選びによってイエス様を信じるようになったと考えます。
エレミヤは預言者として召し出された時、神様に「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」と言われています。人の選びの前に神様の選びがあるのです。パウロもまたガラテヤの信徒への手紙1章15節で「しかし、わたしを母の胎内にある時から選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」と言っています。彼は教会の迫害者でした。イエス様への信仰とは真逆のところにいました。しかし、人生の途上では神様と離れていても、対立していても、神様の選びと備えはそれを超えているのです。
これは信仰には私の意思を超えた神様の働きがあることを教えています。もし私の意思や決断だけの信仰であるならばどうでしょうか。辛い試練に遭った時、それに耐えられない、そして神様の助けがないと信仰から離れてしまう時があるのではないでしょうか。あるいは毎日の生活の大変さの中で、洗礼を受けた時の情熱が冷め、信仰から離れてしまうことがあるのではないでしょうか。しかし神様が与えてくださる信仰、イエス様のまなざしは、それらを超えて私たちに注がれています。神様の選びがあるのです。
また、私たちの心の奥底には、ひとりであることへの不安感があります。ひとりでいることが好きな人もいますが、絶対的な孤独に耐えられる人はそうはいないと思います。私もひとりが好きですが、じゃあ、本当にひとりぼっち、誰からも相手にされない、振り向いてもらえない、人間関係を持つことが出来ないとするならば、どうでしょうか。生きているのさえも辛いかもしれません。そして実際にそういう方もいらっしゃると思います。それだけではありません。孤独感とは、具体的な人間関係、人の集まりとは別のところにあります。家族や友人に囲まれても孤独を感じることはあるのです。そんな時に助けになるのは神様の存在です。聖書は私たちがひとりではないと教えます。私たちが独りぼっちであると感じても、だれからも振り向いてもらえない、誰からも知られていなくても、イエス様は私たちを知っておられるのです。私たちがイエス様を知らなくても、さらに神様を見失ったとしても、もしイエス様に知られている安心感があるならば、それを確信するならば、私たちはもはやひとりではない、そして平安の中にいることが出来るのです。イエス様はインマヌエル、「あなたと共にいる」と言ってくださいます。主の平安があなたと共にありますように。