2023年12月31日 説教 松岡俊一郎牧師

救いの完成を見る

ルカによる福音書 2: 22 – 40

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街は25日を過ぎた途端、クリスマスの華やかなイルミネーションから、お正月の準備のにぎわいに変わって行きます。
今日の聖書の個所の場所、エルサレム神殿の境内のにぎわい。 宮清めの様子。
そのエルサレム神殿はメシアが来られる場所と預言されていました。「見よ。わたしは使者を送る。彼はわが前に道を整える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。」マラキ書3章1節はそう述べています。今日登場する老人もその預言を信じて毎日神殿を訪れていたと思われます。

出エジプト記13章によると、人であれ家畜であれ、初子は主に捧げなければならないという律法がありましたから、イエス様の両親もその律法にしたがってイエス様をエルサレム神殿に捧げに行きます。しかし別の律法(レビ記12章1 – 4節)では、出産後40日間はけがれているとされ、清めの期間が必要でした。この期間は聖なる場所に行くことはできませんでしたから、両親はその期間が終わってから、神殿に詣でたのです。初子の奉献といっても神殿では実際には羊や山羊などの動物を捧げます。しかしレビ記5章7節には貧しくて手が届かない場合は、二羽の山鳩または二羽の家鳩でもよいことになっていました。つまりヨセフとマリアが鳩を捧げたということは、彼らが貧しかったということでもあります。いずれにしても、両親はイエス様を育てるために律法に忠実に従っていたことがわかります。

シメオンは毎日神殿に出かけていました。彼は神が救い主を遣わしてエルサレムを救ってくださると堅く信じていたのです。聖書は聖霊が彼の上に留まっていたと言います。つまり彼の信仰を聖霊が支えていたのであり、信仰には聖霊の働き必要であることがわかります。彼は赤ちゃんイエス様が両親に抱かれながら神殿に入ってくるなり、それがメシアだと確信します。赤ちゃんはどう見ても赤ちゃんです。それを救い主と確信するためには聖霊の働きがなければなりません。彼は聖霊によって信じていたことが実現したと確信したのです。彼の前には布にくるまれた、まだ何もしていない、どうなるかもわからない赤ちゃんがいるだけです。しかし彼にとってはそんなことはどうでもよかった。聖霊が示したそのことだけで十分だったのです。預言は成就したのです。そこで彼は讃美します。「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかにさらせて下さいます。」ここで彼はもう救いを見たと言っています。まだどうなるか、どういう風に実現するか分からない状態です。しかし、しかし彼は赤ちゃんイエス様にそれを見るのです。確かにイエス様は十字架によって救いを実現されます。それをどれだけ彼が予見できたかはわかりません。しかし彼は母マリアに「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」と伝えました。さらに「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」というのは、マリアが息子であるイエス様の葬儀を出さなければならなくなるという悲しみを指示しているのです。

待ち望んでいた人たちだけがメシアに気がつくのです。メシアが来ることは知っている、しかし、今は目の前の生活のことに追われている、そういう人は、メシアが来ても気がつかないのです。神の救いを確信する人だけに安らぎが与えられるのです。

一年の終わりを迎えました。政治や経済などを見ると混乱の一年ではなかったかと思います。災害への対応など、より一層不安が増した一年でした。そこには救いがないような思いですが、しかし神さまはイエス・キリストをとおして救いをすでに完成して下さいました。わたしたちはそれを信じて歩むだけです。社会的な問題、個人的な問題が解決することが救いではありません。そのような救いは次の瞬間また新たな問題が起きて、救いようがない状態に舞い戻ってしまいます。救いは私たちが神様と一つとなることで、そのために神様はひとり子を私たちに遣わし、十字架によって救いを実現して下さったのです。それはすでに実現しました。私たちもその真実を胸に、救いのないようなこの社会の歩みを歩んでいきたいと思います。この一年、礼拝を通してみことばを学び、賛美と祈りを一つにし、信仰を育んでこられたこと、皆さんと共に歩めたことを心から感謝いたします。新しい年もますます主の福音を多くの人々に宣べ伝えていくことが出来るように共に励みましょう。