2023年11月19日 説教 河田礼生神学生

タラントンの価値

マタイによる福音書 25: 14 – 21

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世の終わり、それは再び来られるイエス様と出会う時です。世の終わりはいつ訪れるか私たちには分かりません。先週、松岡先生は「死んで、死後の世界で神様と出会うという終わりが例外なく来るのだから、そのために備える必要がある」とお話しされました。その通りだと思います。イエス様が世の終わりを教える時、終わりへ目を向けることをわたしたちへ勧めるのではなくて「今を生きること」を教えてくださるのです。パウロもまたテサロニケの信徒への手紙の中で「今を生きること」を励ましていました。
今日の福音書「タラントンのたとえ」は、世の終わりについてのイエス様のたとえ話ですから「今わたしたちはどのように生きるか」ということを聞き取っていきたいと思います。

ある人が旅行に出かける時、三人の僕を呼び集めて、それぞれに5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けます。5タラントンを預かった僕と、2タラントンを預かった僕はそれを用いて商売をして、与えられたタラントンを倍に増やしました。一方、1タラントンを預かった僕は、それを使うのではなくて、地面に穴を掘って、お金を埋めて隠します。
さて、時が経って主人が帰ってくると、僕たちと清算をします。そこで、主人は商売をした僕二人を「忠実な良い僕だ」と言って一緒に喜び、穴を掘って隠した僕を「怠け者の悪い僕だ」と戒め、持っている1タラントンをも取り上げて、暗闇に追い出してしまうのです。

ひどい話です。このたとえ話に深く留まっていきたいと思います。5タラントン、2タラントンを預かった僕らと、1タラントンを預かった僕では何が違ったでしょうか。一つにはもらった金額が違ったと言えます。しかし、額が違うことはここでは関係がないようです。
『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
それぞれもらった額は、5タラントンと2タラントンと違いがあるにもかかわらず、二人の僕に対しては、全く同じ言葉を主人はかけ、喜びに迎え入れております。同じように、1タラントンしか預かっていないからということで、喜ばれないということはなかったはずです。儲けた額についても同じことを考えられるでしょう。

二人の僕と最後の僕では、与えられたタラントンに対する、あるいは預けてくれた主人に対する向き合い方が違いました。最後の僕は主人に言います。
『恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』
僕は主人から預かった財産を守ろうとしました。それゆえ、無くさないために地面に穴を掘って埋めて隠したのです。穴を掘って隠す行為は、強盗から資産を守るための行為として、当時最も賢明なものと考えられておりました。しかし、主人はタラントンを用いることを望まれていたのです。『忠実な良い僕だ。』と二人の僕を褒めた言葉は、儲けたことに対しての言葉ではなくて、財産を預けた主人の信頼に忠実だったことに対しての褒め言葉です。最後の僕はこの信頼に応えるのではなくて、むしろ自らの保身を優先させたのです。僕は用いて欲しい主人の思いに応えることができませんでした。銀行に預けるという誰にでもできるような方法でも、誰かのために用いられたはずであるのに、それすらできなかったのです。

さて、この主人と僕の関係は、神様と私たちの関係です。神様は私たちに非常に多くの賜物を託してくださっています。神様の愛、恵み、赦し、導き、これらの全てが私たちが神様から与えられているタラントンです。イエス様はそれらの賜物を力に応じて与えてくださるといいます。このときの力とは、わたしたちがみ言葉を聞き、賜物を受け取る力のことでしょう。様々な要因に応じて、私たちが受け取ることのできる賜物は限りがあります。例えば、自らの悩みとみ言葉が重なって聞こえてくるときには、5タラントンの賜物が聞こえてきます。むしろ、忙しくて他のことで頭がいっぱいになっているとき、あるいは逆にいろんなことがうまくいっていて満ち足りているように思うとき、1タラントンしか聞こえてこないこともあるかもしれません。しかし、それでも十分な賜物を受けております。1タラントンも託されているのです。
実は1タラントンですら、想像を超えるような金額です。それは6000日間、朝から晩まで働いた時の賃金です。現代の感覚で週休2日で働くと考えた時には、なんと約24年分に相当する額です。もっとも少ない僕にさえも、わたしの想像を超える賜物を主人から預かっているのです。神様のスケールは人知の及ばないものですから、さらに言い表せないほど大きな賜物をいただいていると考えることができます。

そして神様はそれを私たちが用いていくこと、つまり分かち合っていくことを望んでおられます。1タラントンを預かった僕がそうであったように、託されているその重みに恐れ、自分の身を守ってしまう気持ちにもなるでしょう。わたしも我が身が大事で保身を優先させてしまうことがあります。
しかしそれでも、これだけの賜物を穴を掘って、埋めてしまうのはもったいないとわたしは思うのです。埋めてしまうと、そこに目を注ぐこともできなくなってしまいます。逆に考えるなら、埋めないだけでも、目を注ぐだけでもその賜物自体に十分な価値があるのです。
わたしたちの内に留めておくのではなく、実行し、分かち合っていくことによって、私たちが受けている賜物は、真の価値に輝きます。それは銀行に預けることでもよいように、決して難しいことではありません。恐れによって、その価値から逃げてしまうのではなくて、喜びによってその賜物と向かい合うだけでも自ずと用いられ、分かち合われていきます。そのとき主は、私たちを大いなる祝宴に招いてくださっています。