2023年10月22日 説教 河田礼生神学生

感謝のささげもの

マタイによる福音書 22: 15  – 22

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ここに集まる多くの皆さんが等しく持っている脈絡があります。教会で生きていること、また日本で生きていることです。この二つは普段は両立しますが、時にぶつかることがあります。それはこの世のルールで生きるか、神に仕えて生きるかの葛藤です。本日の福音書では、イエス様がこのことについて「皇帝」か「神」か、「政治」か「宗教」かという問いに応えられました。

福音書はファリサイ派の人たちがイエス様を罠にかけるために、画策するところから始まります。この時、ファリサイ派の人たちには、イエス様を捕らえよう、民衆からの支持を失墜させようという意図がありました。先週までの日曜日に私たちも聞いてきた譬え話でイエス様は目の前にいた当時の指導者たちやファリサイ派の人たちに対して、あなたたちは表面上は神様に仕える振りをしていても内実が伴っていない、ゆえにひどい目にあうだろうと語ったからでした。ファリサイ派の人たちもそのことに気づいていました。ゆえに罠にはめようとしました。
そのために手を組んだのはヘロデ派でした。ヘロデ派は、ヘロデを支持するグループです。ヘロデはローマ皇帝の委託を受けて、エルサレム一帯を統治していたわけですから、ヘロデ派は政治の一派ということができるでしょう。彼らはイエス様が民衆の支持を集めていたことに、政治的な脅威を感じていました。ですから彼らもイエス様を陥れたかったのです。

「政治的な権威」も「宗教的な権威」もイエス様によって脅かされてしまうと感じることで、元来、相容れない二つのグループが一体となったのです。二つのグループは、下手に出てイエス様を持ち上げ、教えを乞うように尋ねました。しかし、その真意はイエス様を罠にはめることでした。

そこでイエス様に対して用意した質問は、「税金を納めるのは律法的に良いか、悪いか」というものでした。これは巧妙な問いで、良いと答えれば、民の支持を失ってしまいます。一方、悪いと答えればローマのへの反逆として罪に問われてしまうという板挟みを作り出したのです。「税金を納めるのは良いか、悪いか」という問いは、「神に従う」か、「皇帝、この世のルールに従う」かを問う究極の質問であったのです。そして、どちらを答えてもイエス様の権威を失墜させることができたのです。

さあ、この巧妙な罠をイエス様はどう突破したか。イエス様は「神」か、「地上の権力」かどちらですとは答えませんでした。どちらが良いかと問うたのに、イエス様の回答は所有者に返しなさいというものでした。ある意味、「神」と「この世のルール」のどちらにも従いなさいと答えたようでもありますし、うまく躱して答えなかったと考えることもできるかもしれません。いずれにしても、「この世のルールに従う」とは何か、「神に従う」とは何かを質問者に考えさせるように、イエス様は返答されました。単純に質問に答えるのではなく、その真意を読み取って、その根本を問い返したのです。

神に従うとは何か、この世のルールで生きるとは何かという問いは、私たちも直面する問題です。イエス様の応えから、私は特に二つのことが考えられると思うのです。一つは、「政治」か「宗教」かのどちらか一方を選ばなかったことです。地上のルールに従うことに対して、ダメだと言いませんでした。私たちが国家に帰属して生きていくために税金を払うことは、神に従って生きていくことに対しては、取るに足らないことだとイエス様は語っているように思うのです。「神」か「この世のルール」かと二元的に捉えてしまうのではなくて、どちらもですと答えられるイエス様の寛容な愛が示されているのではないでしょうか。イエス様はこのすぐ後、この世のルールによって十字架に架けられて処刑されます。しかし同時に、それは私たちの罪を赦すためでした。つまり、イエス様からすれば、神様に従うことであったのです。イエス様はこの世のルールを超えたところで、神様に従い、私たちをも御心にかなうものとして取り成すのです。

もう一つは「神のものは神に返しなさい」と語ったことです。単にファリサイ派の人たちに譲歩したわけではないでしょう。むしろこれこそ、イエス様の強いメッセージに聞こえます。私たちが神様に返すものとはなんでしょうか。それは私たちが神様から受けているものは何かという問いに立ち返ります。
神様はご自分にかたどって、人間を創造されたことが書かれております。私たち自身が神様の像が刻まれた神様のものです。それゆえに、神様は私たちを愛してくださっています。深い愛と、それゆえの恵みの賜物を私たちは神様から受けています。私たちが神様に返すものとは、私たち自身です。

では私たちはどのようにそれを神様に返すことができるでしょうか。
それは、神様の愛と恵みの賜物よって生かされていることや救いに招かれている喜びに、感謝をささげることです。私たちが神様にささげているものとして、献金がイメージできます。お気づきかもしれませんが、私たちが現在用いている改定式文に変わってから、献金は感謝のささげものと呼ばれるようになり、またその位置も聖餐の前から、派遣のパートに移りました。私たちが神様に感謝をささげることの意味を献金は明らかにするからです。派遣の祈りに、このようにあります。「今ささげられたものがあなたを証し、世界の人々に届けられますように。痛み悲しむ人の隣人として私たちを聖霊によって送り出してください。」
私たちが神様から受けた愛と恵みを返す真の方法は、愛と恵みを分かち合って世界の人々に届けていくこと、隣人のもとに送り出されていくことです。神様は私たちの想像を超える愛と恵みの賜物を備えてくださっているのだから、世界へ分かち合い、神様にお返しできるようにと願うのです。