2023年9月17日 説教 鈴木亮二氏 (信徒)

赦すのは難しいけれど

創世記 50: 15 – 21、マタイによる福音書 18: 21 – 35

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毎週祈っている主の祈りですが、私はずっと昔から唱えるたびに心の引っ掛かりを感じています。それは「赦し」の部分です。文語では「我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。」、NCC統一訳では「わたしたちに罪を犯した者をゆるしましたから、わたしたちの犯した罪をおゆるし下さい。」となっています。私自身は人のことをすべて赦しているわけではないのに、どうして自分の罪を赦してくださいと祈れるだろう、人のことを赦さないと神様に自分の赦しを祈ってはいけないのか、というのが私にとっての心の引っ掛かりです。現在使っているカトリック・聖公会訳では「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」となっており、表現がだいぶ柔らかくなっています。心の引っ掛かりは小さくなりましたが、祈るときのもやもやは完全には消えてはいません。

今日読まれた聖書の箇所は「赦し」がテーマになっています。旧約聖書ではヨセフが兄たちを赦す場面が描かれています。ヨセフは兄たちから憎まれ、ある日穴に落とされてしまいます。その後エジプトに奴隷として売られますが、ファラオへの功績で宰相となります。ひどい飢饉が襲ったヤコブたち家族をエジプトに呼び寄せますが、父であるヤコブが死んだときに、兄たちはヨセフが若いときのことを仕返しされるのではないかと恐れました。ヨセフを穴に落としたのは、自らの手を汚さずにヨセフの命を奪おうとしたのと同じことです。殺されかけるという罪を犯した兄たちが、ヨセフを恐れたのも無理はありません。しかしヨセフはこれからも兄たちとその家族を養っていくと赦しました。神様からいただいた命を奪うという行為は、これ以上ない罪です。もし私が自分の命を狙った者が目の前にいたのなら、それが家族であろうと赦さないのではないかと思います。

さて、罪とはどんなことでしょうか。法律ではいろいろな罪が決められていますが、簡単に言うと相手の利益を損なうことをする、というのが罪なのではないかと私は考えます。人の持ち物を取ってしまう、人からお金を取ってしまう、人がやろうとしていることの邪魔をしてやらせない、いずれもやられた人にとっては自分の利益がなくなってしまうということです。罪の中で最も重いもの、それは人の命を奪う殺人です。その人が生きていく、それ自身を奪うことは利益のすべてを奪ってしまうことにほかなりません。
自分の利益が損なわれたとき、私たちはどう思うでしょうか。毎日暮らしていた家がある日突然壊されてしまう、銀行に預けていたお金がある日なくなってしまう、どこかに行こうとする先で通せんぼをされてしまう。そんなことをする相手に腹を立ててしまいます。利益が損なわれるというのは、ものだけではありません。心の利益が損なわれるとき、例えば心無い言葉を投げかけられたりすると、気持ちが大きく傷つけられてしまいます。そんなことがあった後に相手から謝られたとします。損なわれた利益が小さいものならば、「いいよ、これからはしないでね」と赦すかもしれません。でもわだかまり、特に心のわだかまりはきっと消えないと思います。わだかまりが残ることによって、私は本当に赦しているのだろうかという気にもなります。
赦せないのはなぜでしょうか。自分の利益が損なわれるということは、これまでの自分の努力がないものになってしまうという喪失感が生まれます。損なわれた利益が罪を犯した相手に移ってしまうというくやしさもあります。また、利益を損なうことによって自分の周りの家族や仲間に損失が出てしまう場合には、そのことによる申し訳ない気持ちも出てきます。こういうことが重なってくると、意地でも赦すことはできないと考えてしまいます。

福音書の箇所では、ペトロがイエス様に、自分に対して罪を犯した者を何回赦せばよいのかとたずねる場面から始まります。聖書の時代のユダヤでは、同じ罪を犯したときは3回まで赦したそうです。ペトロはその倍くらいの回数を赦せば「お前は寛容だ」とほめてもらえるかと思ったのかもしれません。しかしイエス様は7の70倍というとんでもない回数を答えられました。ユダヤでは7は完全数として考えられていたので、7の70倍というのは490回という意味ではなく「限りなく」というのと同じ意味だそうです。もっとも490回であっても、途中で数えるのが大変になって数えられなくなりそうです。そこまで赦さなければならないのでしょうか。赦さなくてもよいこともあるような気がして、心がモヤモヤします。

ペトロもモヤモヤしたのかもしれません。そこでイエス様はたとえを話し始めます。王の家来は王から借りたお金を返せずに、ひれ伏して返済を待ってくれるよう願うと王は憐れに思って家来を赦します。外に出た家来は、自分がお金を貸している相手に対して、ひれ伏して頼まれても赦さずに牢に入れてしまいます。その話を聞いた王は、借金をもとに戻して家来を牢に入れてしまいます。
たとえを読んでわかるように、王は神様、家来は自分です。自分が借金を赦してもらったのなら、自分も借金を赦してやればよいのに、それがなかなかできません。人は人、自分は自分なのです。人のことを赦せない私はきっと牢屋に入れられてしまうんだろうなと悲しくなってしまいます。

ここでたとえの中にある借金を比べてみます。王が家来に貸したお金は1万タラントン、家来が仲間に貸したお金は100デナリオンです。1デナリオンは1日の賃金程度と言われています。何を基準にするかは難しいので、日本の場合で言えば5千円から1万円程度でしょうか。一方1タラントンは6千デナリオンに相当するというので、家来が王からした借金1万タラントンは1デナリオンの60万倍にもなります。賃金で計算すれば6千万日分、実に16万年分という途方もない金額です。金額で考えると3千から6千億円という宝くじを毎日何年間も当てないといけない金額です。とても想像ができません。
しかし、私たちが神様からしている借金というのはそれくらい大きいのではないのでしょうか。私たちは神様に対して、毎日毎日大きい罪小さい罪を繰り返しています。積もり積もると1万タラントンくらいの罪を犯しているのかもしれません。それでも神様は、赦してくださいと願う私たちの罪、借金をすべて帳消しにしてくれています。何か私たちが他の人を赦すことと桁が全然違うような気がします。イエス様はペトロに、仲間の罪を赦すのは7回程度ではなく無限に赦すのだと言われました。無限に赦すのは、それだけ私たちが神様から赦されているからだと言われます。
そのように言われると、私たちも人の罪を赦してやるべきなのかもしれません。主の祈りでも、神様が私たちの罪を赦してくださるのだから私たちも人を赦すのかもしれません。けれどもやっぱりなかなか人を赦すということは難しいと思ってしまいます。

頭ではわかっていても、人を完全に赦すことができない自分がいることを私は知っています。神様からいつ牢屋に入れられても仕方がない人間であることを知っています。それでも神様はまだ私を牢屋には送っていません。常に私を赦してくださっています。それは、イエス様が私たちの罪をすべて背負って十字架で死んでくださったことからはっきりしています。私たちにできることは、神様が私たちを赦してくださっているのが途方もない量であることを知っていること、赦せない自分であることを神様に告白して、赦しをお願いすることだけなのかもしれません。