恐れることはない
列王記上 19: 9 – 18、マタイによる福音書 14: 22 – 33
福音書によると、ガリラヤ湖畔で5千人の人々に食事を与える奇跡を起こされた後、弟子達を先に湖の対岸に行くように促され、残っていた民衆はイエス様ご自身が解散させられました。そしてイエス様も一人で祈る時を求められたのです。
弟子達が舟で漕ぎ出した後、湖は荒れ始めました。ガリラヤ湖比較的大きな湖で西側は崖に囲まれていますし、東側にも山がありますから、時折、強い風が吹きおろし荒れることがあったのです。それでも彼らのうちの何人かは漁師でしたから、多少の荒波でも平気だったに違いありません。しかしそんな彼らも夜通し荒波と闘い、ヘトヘトに疲れていたと思われます。朝方、まだ夜も明けきらない時刻にイエス様は波の上を歩いて弟子達のほうに行かれました。弟子達はそれを見て「幽霊だ」と言っておびえ、叫びました。疲れ切った上に朝方です。眠たさもあり、見通しも悪かったでしょう。それ以上に荒波の上を人が歩いてくるなど誰にとってもあり得ないことでしたから、彼らが恐れたのも無理はありませんでした。イエス様はそんな彼らに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。
するとペトロが「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせて下さい」と言いました。ここにはペトロの信仰が見てとれます。五千人の給食の奇跡を体験したペトロです。イエス様であるならば、どんな荒波の中でも自分を歩かせて下さることができるという思いがあったのです。イエス様はペトロに「来なさい」と言われました。ペトロは舟から降り、水の上を歩き始めました。ところが強い風に気がついて恐ろしくなり溺れかけ「主よ、助けてください」と叫びました。イエス様はすぐに手を伸ばし「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱られたのでした。
ここで気がつくことは、ペトロがイエス様を見つめ、その力を信じ、イエス様のもとに行こうとした時には、彼は水の上を歩くことができ、彼がイエス様から目をそらし、荒れ狂う波に目を奪われたとき、彼は波に溺れそうになったのです。そしてイエス様はそんなペトロに「なぜ疑ったのか」と言われています。ここで用いられる「疑い」と訳されているディスタゾーという言葉は、二度とか二重を意味する「ディス」という言葉から派生した言葉です。つまり別の考えや別の思いがあると受け取っていいと思います。確信的に疑っているというよりは、迷っている、ためらっているのです。ペトロはイエス様を疑ったわけではありませんでした。むしろ信じていました。ただイエス様から目をそらし、波に気を取られてしまっただけでした。しかしイエス様はそれを「疑い」と言われ、そのようなペトロを「信仰の薄い者」と言われたのです。
私たちは、「私には信仰がある」と自信をもっていえる人は、そう多くはないと思います。しかしまったく信じてないかと言うとそうでもない。第一、信じていなかったら礼拝に出席などしないでしょう。自分ではある程度信じているつもりだし、頑張ってその教えを生きようとしているのではないかと思います。そういう私たちですが、同時に日々さまざま悩みや不安に脅かされているのではないでしょうか。仕事で成果をどのように出すか、会社の人間関係、ご近所との関係、家族や親戚との関係、心やからだの健康や体調、日々の生活そのもの、自分自身の心のありよう、さまざまな事柄が私たちを苦しめ悩ませます。信仰があるのだから、それらを乗り切れるはずと思うのですが、そう簡単にはいきません。信仰をもっていても、うまくいかない時はいかないのです。イエス様が水の上を歩かれた不思議な出来事とそこで弟子達と交わされた言葉は、そのような私たちに向かって語られる言葉でもあろうと思います。私たちの基本的な気持ちはイエス様に向かっています。それは偽りではありません。しかしそうであっても私たちは目の前の荒波のような出来事に翻弄され、目を奪われ、心はいつも不安に揺らいでいるのです。そこに恐れが生じます。恐れはイエス様から目をそらした時に起きるのです。
今日の旧約聖書の日課である列王記上19章11節はこう言っています。「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。」というものです。私たちは風の激しさに驚きます。地震や火を恐れます。このように私たちを襲うものに恐れ、気持ちを奪われてしまうのです。それらはしばしば信仰の対象になったり、神様の力の表れとも理解されます。しかし、旧約の日課によれば、主のみ声は静かにささやく声です。ささやく声は静かな心でしか聞きとることはできません。集中しないと聞こえないのです。そして私たちが主イエスにのみ心を向ける時には、そこには何ものも入り込むことができない静けさと平安があるのです。辛い出来事の中にある時にこそ、心を騒がせるような出来事に出合った時にこそ、心が不安定になっている時にこそ、心のすべてをイエス様に向け、静かにささやく声に耳を傾ける必要があるのです。
舟はしばしば教会にたとえられます。荒波は社会です。社会はいつも平穏ではありませんが、それでも普段は教会も安心して宣教の務めを果たすことが出来ます。しかし社会が混乱しているとき、人の心はかたくなになり、争いや戦争に向かいます。また今私たちが直面している経験したことのない疫病の前でも、不安が広まっているのです。そのようなときに教会がどうするのか。何に耳を傾けるべきなのか。今日の日課は教えます。イエス様はペトロに「なぜ疑ったのか」と言われました。それは別の言い方をするならば、「なぜ私から目をそらしたのか」ということではないかと思うのです。聖書はイエス様が弟子達を舟に送り出す時に「強いて」そうなさったと書いています。それはご自身から目をそらさないことの大切さを教えることにほかなかったと思うのです。
イエス様の声に耳を傾ける、イエス様に心を向ける方法は、人それぞれ違います。祈りはもちろんその一つです。それ以外にも、静かに自然と向き合うこと、好きな音楽を聞きながら黙想すること、誰かと静かに語らうこと、いろいろあると思います。大切な事は、どんな方法であるにしろ神様としっかり向き合うことです。そしてそれは私たちのずっと続いて行く生活です。