キリストはわたしたちの平和
エフェソの信徒への手紙 2: 13 – 18、ヨハネによる福音書 15: 9 – 12
聖霊降臨後の、適切な主日を「平和主日」「平和の日」と定め、多くのルーテル教会では、8月の第一主日に「平和主日」の礼拝を守ります。ルーテル教会に限らず、他教派の教会でもこの日を「平和聖日」、「平和を祈る日」として礼拝が守られています。
こどもさんびか140番に「みんなでへいわ」というさんびかがあります。「みんなで平和をいのろう」という歌詞に続き、音楽をつけないで様々な言語で「平和」と自由にさけんでみようという讃美歌です。ピョンファ、ミール、シャローム、ぺ、シャンティ、アマニと続きます。二節では「みんなでへいわをねがおう」三節では「みんなでへいわをつくろう」という歌詞に続き、「平和」と自由にさけぶのです。「平和」全ての人が祈り、願っているのも関わらず、私たちの世界は「平和」からかけ離れてしまっている、「平和」をつくることができない現実があります。昨年の2月、ロシアによるウクライナ軍事侵攻が始まり、2年半近く過ぎても終息の兆しはなく、戦いは激しさを増し、安心、安全な生活が脅かされ、対話による平和解決の道は閉ざされています。私たち遠くにいる者にできることはないのだろうかと思いつつも、いつしか報道されるニュースにも慣れてしまっている自分がいます。平和主日には、毎年同じ日課が読まれていますが、「平和」についてみ言葉に聞いてまいりましょう。
イエス様は今日の福音日課の前「わたしはまことのぶどうの木」で、イエス様をキリストと告白し、神と信じる者は、豊かな実を結ぶようになる、絶えずキリストにつながっていることを命じられました。そして9節10節では、「私の愛に留まりなさい」と、「留まる」という言葉を3回も用いています。この「留まる」という動詞は、特定の場所に「滞在する」物理的空間に「留まる」という意味がある言葉ですが、ここでは「わたしの愛に留まる」ということですから、特定の場所や物理的空間に留まるということでなく、信仰の中に留まるということを意味しています。「留まる」ということは、イエス様の掟を守ることによってなされることです。イエス様ご自身が父の掟を守り、完全に従ってきたのだから、イエス様の掟を完全に守ることができれば、イエス様の愛の中に留まることができる。そしてイエス様の喜びが弟子たちの喜びとなり、弟子たちの喜びを完成させることになると語られます。イエス様の掟とは、ヨハネ福音書13章34節に記されている「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という掟で、ここで再び繰り返されます。イエス様が十字架を前にして弟子たちに語られた言葉、イエス様の遺言とも言えるこの新しい掟は、ただ一つ「互いに愛し合いなさい。」ということなのです。
一冊の絵本を紹介したいと思います。6年生の国語の教科書に紹介されていた本ですが、鎌田實さんというお医者さんが書いた『アハメドくんのいのちのリレー』という絵本です。鎌田医師は「イスラエル兵に殺された息子の臓器を、敵国の病気の子どもたちを救うために差し出したお父さん」という小さな新聞記事を読んでからいつかこのお父さんに会いたいと思い続け、実際にパレスチナまで足を運び、会って聞いた話をもとにこの絵本を書きました。
パレスチナの難民キャンプで暮らす12歳のアハメド君は、勉強のよくできる明るい元気な少年でした。アハメド君一家の暮らしていたのはヨルダン川西岸、パレスチナ自治区のジェニン難民キャンプでした。ジェニン難民キャンプは、イスラエルに対する過激な抵抗組織の本拠地として知られ、自爆テロの実行者の多くがここの出身地だとも言われていました。2002年4月アハメド君が9歳のときにもジェニン難民キャンプにイスラエル軍が攻めてきて砲撃し、多くの犠牲者を出しました。それでもアハメド君は優しい心を持ち、パレスチナ人もユダヤ人もどうして仲良くできないのだろう、憎み合って、殺し合っていったい誰が幸せになのだろうと疑問を抱き、平和を求め、いつの日か難民キャンプを出て、広い世界を見て歩きたいという夢を持ち続けていました。
ある日のこと、ラマダン明けを祝うお祭りで友達の家のパーティに呼ばれたアハメド君は、一張羅のスーツに合うネクタイを買いに洋品店に向かいました。その途中鋭い銃声が2発ひびき、アハメド君の腹部とこめかみめがけて発せられ、倒れたのです。撃たれた場所のそばにあるパレスチナの地区病院に運ばれましたが、手のほどこしようもなく、救急車ですぐにイスラエル北部ハイファの病院に搬送されました。しかし残念ながら脳死と診断され、主治医は、アハマド君のお父さんに臓器移植の提案をします。
「この病院にも、ほかの病院にもいのちにかかわる重い病気の子どもたちがたくさんいて、健康な臓器を必要としています。あなたの息子さんの命を救うことはできないけれど、息子さんの臓器で、その子たちを救うことができます。ただし・・・提供する側が移植相手を選ぶことはできません。国籍も、民族も、宗教も選べない。パレスチナ人かもしれないが、イスラエル人かもしれない。イスラム教徒ではなく、キリスト教徒やユダヤ教徒かもしれない。」
この提案に対してアハメド君のお父さんは、悩んで悩んで、アハメド君の臓器提供を決意します。そして銃弾で射抜かれた三日後、アハメド君の体から臓器が取り出され、3つの病院で移植手術が行われました。腎臓は4歳の女の子と5歳の男の子に、肝臓は二つに分けて、6か月の赤ちゃんと57歳の女性に、そして心臓は、アハメド君と同い年と12歳の少女に移植されます。6人全員がイスラエル国籍、3人はユダヤ人でした。アハメド君はイスラエル兵に撃たれました。にもかかわらず、愛するわが子の臓器をイスラエルの病気の子どもに与え、命を救ったのです。アハメド君の心臓によって救われた少女は、医学部を目指す女性になりました。アハメド君の心臓はこの少女の体で力強く生き続けているのです。「医師になって、たくさんのいのちを救いたい。イスラエルとパレスチナの平和のために働きたい」と強い意志をアハメド君のお父さんに伝えました。
本日の使徒書の日課には、14節「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」と記されています。「一つにする」、「~にする」という言葉には、たくさんの意味があり、「造る、創造する」「行う、行動する」「任命する」「言明する」など辞書には記されています。15節に「一人の新しい人に造り上げられ」と訳されているこの「造り上げる」というのも同じ動詞が使われています。つまり二つのものから一つのものを造りだすという意味なのです。
「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」ここで律法とは、ユダヤ教の中心であるトーラー、モーセの律法です。ユダヤ教徒にとって、トーラーは単なる規則と規定の集大成であっただけではなく、先祖代々の知恵の集積、神の恵みの道、生きる道です。成文化された律法のみを指しているのではなく、その時代に適用した生きた口伝の法であり、ユダヤ文化の核となっているものです。「律法を廃棄された」というのは、キリストによって破棄されたということではありません。「廃棄された」と訳されている言葉には、「働かないで遊ばせておく。実を結ばなくさせる。」「絶やす、終わりにする、廃止する、やめる」という意味の言葉が使われています。同じ言葉がローマの信徒への手紙6章6節では「律法から解放されています」と訳されています。このことからわかるように、「律法を廃棄された」ということは、律法にしばられる生活から解放されたと理解することができるのです。こうしてキリストは、二つのものを一つにし、ご自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた、敵意という壁を取り壊したのです。
キリストの和解と平和は、「キリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」最終目標は、霊に結ばれて、霊の力によって父に近づくことであり、一つの体となることです。平和が与えられるのは、まずは神に近づくこと、そしてそれは、キリストによってキリストの十字架によって、霊の力によってなされる業なのです。
私たちはイエス様によって示された新しい掟「互いに愛し合いなさい」という言葉を、繰り返し教えられています。しかし私たちはその掟を守ることができず、差別や偏見は消えることがありません。子どもの世界でもいじめがあり、社会においても足の引っ張り合いが絶えず、日常生活の中でも悪口、かげ口を言い、憎しみばかりが増してしまうのが人間の世界です。そんな弱い情けない私たちに神様はイエス様を人としてお送りくださり、イエス様は自分の命をも犠牲にして私たちに愛を示してくださいました。二つのものを一つとされ、敵意という壁を崩され、和解と平和を実現されたのです。アハマド君のお父さんは、敵であるイスラエル兵の銃撃によって命を落としたアハマド君から宿題が与えられている、それは平和な世界を築くこと、安心して外で遊ぶことができる世界を築くことだと語ります。今日、この平和主日の日も世界中で争いは続いています。しかし、「平和」と声高らかに叫び、キリストによる和解と平和を祈り、願い、つくり出す者として遣わされていきたいと思うのです。