神の国の成長
列王記上 3: 5 – 12、マタイによる福音書 13: 31 – 33、44 – 52
この二週間の日曜日の福音書の日課では、種蒔きのたとえと毒麦の譬えが語れました。今日の日課でもイエス様は譬えを用いて話されます。前半では、天の国はからし種に似ている、さらにパン種に似ていると語れます。後半では、天の国は畑の中で宝を見つけた人にたとえ、さらに高価な真珠を見つけた商人、さらに多く取れた網に入った魚にたとえられます。
前半の二つのたとえで共通するのは成長すること、増えることです。天の国は成長するのです。植物の種の中でも一番小さかったからし種は、やがて成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほどに大きな枝を張ると言われるのです。またパン種は練った小麦粉の中に入れられ、発酵させパンを膨らませるのです。聖書に「天の国」とある言葉は、以前の口語訳聖書ではストレートに「天国」と書かれていました。聖書では天国とはどこか場所を指しているのではありません。「神の国」とも言われ、神様のご支配の及ぶところを指しています。
そして天の国の働きつまり神様の働きは、植物の成長が目に見えないのと同じように、すぐにそれとわかるような仕方で働くのではありません。もちろんそこには人の働きがありますが、その背後に神様の目に見えない、人が悟ることが出来ないような働きがあるのです。そしてやがてその働きは、人が想像しなかったような成長と実りを生み出すのです。
私たちは自分の信仰をどのように考えているでしょうか。若いうちは、自分で考え、決断します。行動できる時には、多少の失敗はあっても、それをもろともせずに自分に自信を持って突き進むことができます。信仰も同じです。若いうちは神様を情熱的に信じて、教会生活もその若さを生かして積極的に関わることができます。しかし人はずっとそのままで行けるかというとそうではありません。たびたび挫折し、絶望感にさいなまれます。時にはそれまでの情熱と力強さのギャップの激しさに、心が折れてしまって、教会を離れてしまうことがあります。また、挫折を感じないまでも、仕事や家庭の忙しさに追われてついつい教会から足が遠のき、ある種の後ろめたさや悔いを感じながらも、信仰から離れてしまうことがあります。しかし、年齢を重ねていくうちに、そしてその月日の中で起こる挫折感や絶望感を上手に受け入れていく時には、自分の意思で信じる、自分の熱意で奉仕するというような「自分が、自分が」というような気負いが消えて、信仰にしても奉仕にしても神様の導きの中で養われ動かされていると感じることが出来るようになります。私はこれが天の国の姿だと思うのです。「自分が」、というように自分が前面に来る信仰は、それはそれで力強く素晴らしい面をたくさん持っていますが、天の国の支配は、もっと穏やかに、ひっそりと、じんわりと人を包み込み、押し出していくと思うのです。若いころには、若さに溢れる輝きがあります。しかし年齢を重ねてからの信仰は、たとえ自分は何もしなくても、何もできなくても、神様がその方の内に働いて下さって輝きを与えてくださるのです。
信仰は自分が何かをすることではなく、自分自身を神様のみ手にゆだねることです。パウロはコリントの信徒への手紙二 12章9節でこう言っています。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」
私たちの生きる時代は、政治的にも経済的に、自然環境においても、暮らしにおいても決して楽観視できるような時代ではありません。特に新型コロナウィルスの影響で様々なことが制限され、憂鬱な時を生きてきました。それは時には私たちの弱さ、小ささ、無力さを嘆くような状況があります。しかしそうであっても、成長させてくださるのは神です。神様にはできないことはありません。ですから、私たちが神様により頼む時、私たちは自分自身の弱さや足りなさを嘆く必要はありません。むしろそこは神様の働く場所、神の国として輝き、実り、多くのもの守り、励まし、宿らせることが出来るからです。
さて後半のイエス様の譬です。二週にわたってなされた種まきのたとえや毒麦の譬とは違い、解説がついていません。また語られた対象も一般民衆ではなく弟子達に対しての譬という違いがあります。隠されている宝、たくさんの真珠の中の高価な真珠、それぞれを見つけた人は、持ち物財産すべてを売り払ってでもそれを手に入れるというのです。宝を見つけた場所は、もともとその人の畑ではありませんでした。たまたま見つけたのです。しかしいったん見つけたならば、全財産を投げ売ってまでその畑を手に入れ、宝を自分のものとしたのです。真珠商人は質の良い真珠を探していました。そして見つけると同じようにすべてを売り払ってそれを買い取るのです。前者は偶然に見つけたと言っていいでしょう。後者は一生懸命探していました。その違いはあっても、いったん見つけるとすべての財産をはたいてもそれを手に入れるのです。これは天の国を求める人の姿です。天の国とは死後の世界だけを言うのではなく、今この瞬間にも存在する神様のご支配です。神様の支配を何気ないところで偶然に発見するか、それとも一生懸命に探しまわるか、人の天の国に対する姿勢はさまざまです。いずれにしても神様のご支配は私たちに日常のあらゆるところに見つけることができ、私たちはそれを手に入れることができるのです。
今日の旧約聖書の日課は、神様が夢の中でソロモン王に現われ、何でも願ってよいと言われた時に、ソロモンが「あなたの民をただしく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願い出て、神様から「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた」と誉められています。この出来事は「何よりも神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(6: 33)というイエス様の言葉を支えています。
私たちは目の前の必要にとらわれてしまいます。目の前の大切なもの、魅力的なものに引かれてしまいます。神様の国、ご支配を求めることと自分の生活の中での欲求を次元の違うもの、別物と考えがちです。しかし「あなたの富のあるところに心もある」と言われるように、それらは決して区別できるものではありません。生活の中で天の国、神様のご支配を求め続けることが大切なのです。神様のみ業はこの世のすべて、私たちの毎日の生活の中のあらゆるところに及びます。もちろん私たちの世界は罪に満ちていますから、それらが神様の業であると考えるのは間違いです。しかし、人との会話、出来事、自然、さまざまな中に、さまざまな方法を通して神様は支配しておられるのです。大切な事はそれらの中に私たちが神様の恵みを見出していけるかということではないでしょうか。
聖書はさらにたとえを続けます。魚を捕る漁のたとえを通して、世の終わりの時、天使達が来て、あなたは天国、すなわち神様のご支配を求め続けましたか、それともそれを無視して目の前の欲望に終始しましたかと問われるというのです。ここでは最後の時と言われていますが、わたしは今私たちが生きている今その瞬間、瞬間が裁きの時であろうと思います。なぜなら、神様のご支配を受け入れそこで生きることはすでに天国にいることと同じであり、そこから離れてしまうことは神様の愛を見失うことにほかならないからです。神様の愛を知っていることはそれだけで平安が与えられ、神様の愛を見失うことはそれだけで私たちを不安と苦しみに陥らせてしまうからです。
イエス様は最後に弟子達にこれらの教えがわかったかと確認されます。そして「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」と言われます。ここで言われている「学者」とは、専門的な学びをした人と言うより、天の国を求めている人と理解して差し支えありません。天の国を求めている人は、日常の身の回りにあるものの中に神様のみ業や恵みを見出すのです。