麦の一本も失わない
マタイによる福音書 13: 24 – 30, 36 – 43
先週に続き「種まき」がイエス様のたとえ話の題材ですが、今週はより具体的に「天の国は次のようにたとえられる。」と言われています。「天の国」は、いわゆる天国を指す言葉ではなく、「神様の意志が行われる状態」を意味します。主の祈りで、「みこころが天に行われるとおり、地にもおこなわれますように」と唱えるのは、この地上でも「天の国」が実現しますように、と祈っているわけです。
本日のたとえ話には特筆すべき点があります。
一つ目は「天の国は次のようにたとえられる。」と書かれている点です。私たちは、天の国を来るべき日に訪れる理想状態として考え、そこに毒麦が存在するというイメージを持ちにくいように思います。ましてや、本日のたとえ話のように、麦の間に毒麦が存在するとなれば、誰が毒麦なんだと互いに裁きあうような事態になって、かえって天の国が遠のくようにも思われます。しかし、イエス様は、敵が存在し、麦と一緒に毒麦も育つような状況を引き合いに出しつつ、「天の国は次のようにたとえられる。」と語られます。麦と毒麦が混在する現実の中に、天の国にたとえられる要素があることに驚かされます。
二つ目は、この話が「毒麦」のたとえと言われていることです。「天の国は次のようにたとえられる。」という言葉で始まる話のタイトルが「『毒麦』のたとえ」であることに、違和感を覚えます。良い種が「御国の子ら」を意味するのに、なぜこの話は「毒麦と一緒に育つ麦のたとえ」ではないのでしょうか?聖書の「小見出し」は、後世の人がつけたもので、初めから聖書にあったものではありませんから、気にする必要はないのかもしれませんが、英語やドイツ語の聖書でも「麦の中にある雑草のたとえ」となっていますし、36節の弟子たちの言葉からも、このたとえは伝統的に毒麦について語られたものと捉えられてきたようです。
そこで、本日は「天の国」と「毒麦」というキーワードに着目して、み言葉に聞いていきたいと思います。「天の国は次のようにたとえられる。」という箇所は、口語訳聖書では、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。」と訳されており、天の国は良い種をまいた人にたとえられています。「天の国」=「人」という表現は、多くの聖書の訳に共通します。ここに理解のヒントがありそうです。
「毒麦のたとえ」は、マタイによる福音書独自の記事です。「マタイ」による福音書と呼ばれますが、マタイ本人ではなく、のちにマタイの流れを組む共同体によって書かれたとされています。他の福音書にはない「毒麦のたとえ」をマタイ共同体が知っていた理由、この話を福音書に入れた背景については明らかになっていませんので、想像の域を出ないことですが、このたとえは、マタイが生きていた当時から大切な教えとして共同体に語り継がれてきたのではないでしょうか。
マタイは元々徴税人でした。収税所に座っていた時、イエス様に声をかけられて、イエス様の弟子となりました。徴税人は、ユダヤを支配していたローマ帝国のために働く裏切り者、嫌われ者です。その時の様子はマタイ9:9-13にありますが、ファリサイ派の人々が、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と、イエス様を批判したことが書かれています。このファリサイ派の人々の問いと「行って抜いて集めておきましょうか。」という畑の僕たちの発言は、通じるものがあります。徴税人や罪人、もしくは毒麦は排除されなければならないという点です。それに対して、畑の主人は、刈り入れの時まで待つように言われます。毒麦を駆除するために大切な麦の何本かを犠牲にするリスクを避けようとされるのみならず、「両方とも育つままにしておきなさい。」と、毒麦も一緒に育つことをよしとされています。
イエス様が毒麦の話をされたとき、マタイは徴税人だった自分のことを考えたことでしょう。我こそが良い麦と主張していたファリサイ派の人々に何と批判されようとも、自分に目をとめ自分を弟子として受け入れてくださった方がいた、毒麦だからと抜き捨てるのではなく、育つままにしてくださった方がいたから今の自分がある、マタイはそのことを繰り返し語ってきたのではないかと思うのです。毒麦である自分をも救ってくれたのが天の国だ、そんなマタイの思いもあって、このたとえ話は、「毒麦」のたとえと呼ばれるようになったのかもしれません。
私たちは、自分が良い種から芽生えた麦でありたいと思います。立派な実りをもたらす麦でありたいと願います。しかし、自らの心の中の思いや日頃の行動を冷静に振り返るとき、私たちは、自分の中にある毒麦の要素に気付かされるのです。同じ畑に麦と毒麦が共存しているように、私たちも一人の人間の中に麦と毒麦の両面を持っています。
毒麦は麦畑に育つ雑草で、若い時期には麦と非常によく似ていますが、穂が実ると、毒麦の方が実が小さく、穂の付き方もまばらであるという違いが出てきます。畑で働く僕たちが毒麦の存在に気付いたということは、毒麦と麦の違いが表れ始めたということでしょう。けれど、今の段階で選別されるなら、私たちの誰が自分は良い麦だと自信をもって言い切れるでしょうか。
刈り取りの時、毒麦は集められ焼くために束にされます。それは神様の真実であり、変えられないことです。その時には、麦と毒麦はその実りをもって判断されます。けれど、今はどう見ても毒麦にしか見えないものの中に麦が含まれている、このタイミングでは毒麦だと判断せざるを得ないものの中にきっと麦がいるはずとして、畑に育つ一本一本を気にかけるのが種をまいた主人の姿だと、イエス様は言われているように思います。小さい者、弱い者、社会のルールにそぐわない者が切り捨てられない状態が天の国なのです。毒麦のように見えるけれど、まだ十分に育っていないだけかもしれない、もう少し待てば立派に育って麦だということが分かるに違いない、早まって大切な麦の一本を失うようなことがあってはならない、そんなイエス様の声が聞こえるようです。
ファリサイ派の人々の問いに対するイエス様の答えは、「なぜなら彼らは自分が畑にまいた大切な麦だから。」だったことでしょう。イエス様の目には、マタイは毒麦ではなく、麦に見えていました。「毒麦」のたとえは、同時に「麦」のたとえなのです。
他人の足りないところにばかり目を向け、自分とは異なる者を排除しようとしがちな私たちの間にも、「天の国」が実現することを願うものです。「みこころが天に行われるとおり、地にもおこなわれますように」との祈りに、改めて心を合わせます。