2023年7月9日 説教 松岡俊一郎牧師

イエス様の招き

マタイによる福音書 11: 16 – 19, 25 – 30

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今日の福音書の日課の中に軛という言葉があります。軛とは聞き慣れない言葉ですが、何でしょうか。土を耕すために牛などの首にかける重い木製の器具です。これをイエス様は重荷として表しておられます。聖書の時代の人々にとって、軛、重荷とは何だったのでしょうか。それは律法をはじめとするさまざまな掟でした。現代のような多様な価値観があった時代ではなく、ユダヤ教の戒めこそが人々の生活の中心であり規範でした。それは生活のありとあらゆることに及んでいました。12章以下にある律法の安息日を厳守するという事は絶対的な戒めでしたし、食事の前に手を洗う、食器を洗い清めるという今では日常の一コマでしかないことも宗教的なしきたりでした。生活のあらゆることが自由な思いや考えでできることではなく、しきたりによって許され禁じられていたのです。今私たちが考えるならばそんな窮屈な生活はご免こうむりたいと思いますが、当時の人々にとって軛のように重荷となってのしかかっていたのです。そこには律法や戒めを守ることによって救いを手に入れることが出来るという考えが根底にありました。これはユダヤ教に限らずいろいろな宗教に共通する考えで、キリスト教も宗教改革が起こるまではそのように考えていましたし、今でもそれに近い傾向を持っている教会もあります。それは一言でいうならば、神様の救いを自分の手で手に入れるという事です。マルチン・ルターも修道士時代、いかにしたら神の恵みを獲得することが出来るかと格闘しました。徳を積むという考えもこれと同じだと思います。修行するという事もこれに近いかもしれませんが、本物の修業とは、むしろそのような考えも超えていくことだと思われますが、多くの場合の一般人にとっての修行はこの徳を積むことと同じだと思います。このように人は常に自分の手で救いや恵みを獲得しようとするのです。

これに対してイエス様は、「知恵のある者や賢い者に隠して幼子のような者にお示しになりました」と言われています。「知恵のある者や賢い者」とは律法学者や祭司たち、ファリサイ派の人々のことです。それでは幼子とはどういう意味でしょうか。幼児はいろいろなことを学びはしますが、自分の力だけでは生きることはできません。むしろ両親や大人の力の助けを必要とします。つまり自分自身の力ではなく人の力に頼るのです。イエス様が幼子と言われることは、自分に頼るのではなく、幼子のように神の力により頼むという事です。イエス様はご自分のことを「柔和で謙遜な者」と言われていますが、これもそのような意味です。律法学者や宗教家たちも、救いを求めそのために戒めを守ることに務め、それを人々にも求めていました。しかし彼らはそれを守ることが出来ない人々は切り捨てていたのです。それは結果的には神様から人々を遠ざけていたのです。

さてそれでは私たちにとっての軛、重荷は何でしょうか。戦争や宗教弾圧の時代は重荷どころか命を脅かすものでした。現代の私たちは、そのような社会的な状況はなくても、自然災害が人々を苦しめています。また差別やいじめにあっている人もいます。家庭内のトラブル、特にDVなどの被害に遭っている人、孤独に苛まれている人、肉体的、精神的な病の中にある人。それだけでなく、普通に勤めている方々も厳しい競争と境遇で追い詰められているのです。そのような私たちにイエス様は「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と呼びかけられます。それはイエス様の軛は、他でもないイエス様ご自身が一緒に負ってくださるからです。イザヤ書53章4節以下には「彼が担ったのはわたしたちの病。彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」と言っています。私たちの重荷をイエス様は十字架にかかることによってその痛みによって負ってくださるのです。

それは私たちの生活状況が一変するわけではありません。私たちの毎日の生活は同じように繰り返されます。そこには苦しみや困難さの壁は依然としてあります。しかしそこで私たちはもはや私一人で、私の力だけで立ち向かうのではないのです。イエス様が共にその重荷と苦しみを担い、ある時は支え、ある時は癒し、ある時は押し出してくださるのです。この信仰によって身動きが取れずうずくまっていた私たちは、前に歩き出すことが出来るのです。