真に大いなるお方
エレミヤ書 20: 7 – 13、マタイによる福音書 10: 24 – 39
マタイによる福音書によると、10章の初めで12弟子を選ばれたイエス様は、彼らを伝道へと送り出すにあたって教えを述べられました。その内容は喜びの内容というよりは、何も持っていくな、歓迎されない場合もあるというように、選ばれたばかりの弟子たちにとっては緊張を伴うものでした。
伝道は人の心と生き方が自分に向いているのを神様に向き直るように促すものです。もちろんそれを実際に行うのは働き手ではなく、伝道者はその種まきでしかありません。しかし、そうであっても神様の言葉を語る時には、人の心の奥底の部分と触れあうことになりますし、語ることばが時には相手にとって聞きたくない言葉となることもあります。神様の言葉を聞いた人は、素直に聞き入れる場合もありますが、自分の生き方を変えられるのですから、無意識に抵抗します。時にそれは伝道者に対する具体的な攻撃にもなるのです。
イエス様が生きておられたイスラエルは、ローマ帝国の支配の中にありましたが、ユダヤ人の実生活はユダヤ教が支配していました。その象徴であったユダヤの神殿もおおかた完成し、祭司制度、律法の教えも人々の生活の中に浸透し、厳しく守ることが求められていました。これに対してイエス様はさまざまな斬新な考えと律法解釈をもって臨まれましたから、それを喜んで受け入れる者もいれば、その時代の指導者であった祭司や律法学者、ファリサイ派の人々の批判の目は、イエス様に対してはもちろんのこと、イエス様に従った人々にも大変風当たりが強かったのです。その結果イエス様は十字架に架けられて殺されるのです。無論そこには、父なる神様の大いなる人類を救うご計画があったのですが、この世の目にはイエス様はユダヤ教徒の迫害によって十字架にかかられたのです。その出来事は、後に残った弟子達にはイエス様に従うことの厳しさが強く印象づけられたことだと思います。
マタイによる福音書が書かれたのは、イエス様が死なれてから40年以上後の80年代と言われています。ユダヤの神殿は70年にはローマ帝国によって破壊され、ユダヤ教そのものも力を失っていましたが、使徒言行録を見ると、パウロはユダヤ教徒から執拗に攻撃されている様子が見て取れますし、数年前の64年にはローマ帝国による迫害が始まっていたのです。この迫害は313年のコンスタンチヌス帝のミラノの勅令まで続きますので、今日の福音書でイエス様によって語られたと記録される言葉も、その当時のキリスト教会が直面していた迫害の様子が色濃く反映しています。特にマタイ10章16節から23節まではその厳しさがリアルに描かれています。
今日の旧約聖書の日課のエレミヤの告白もまた、その人々から浴びせられる厳しい攻撃から弱音を吐いているところです。エレミヤは旧約聖書の中で大預言者の一人に数えられる人ですが、その実像は実に人間的です。南ユダ王国の滅亡の時期に生きたエレミヤは、当時彼らを襲ったバビロニア帝国をこともあろうに「神様の使い」と言い、バビロニアに攻撃されるのは、イスラエルの神様に対する背信の故に与えられた裁きであると説きました。従って、その裁きを甘んじて受けるべきであって逆らってはならないと説いて回ったのです。しかしそれはユダヤ人にとっては、負けを認めること、国を売ることでしたから、エレミヤは同胞であるユダヤ人たちから厳しく攻撃されたのです。それでついに「主よ、あなたがわたしを惑わし、わたしは惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ、人々が皆、わたしを嘲ります」と告白しているのです。
偉大な預言者であっても、神様の言葉を語り、その信仰を貫こうとすると、このような悲劇が待ち受け弱音を吐いているのですから、私たちもそれを聞くとだんだん弱気になってしまい、信仰生活も当たり障りのないところで行きましょうと言いたくなってしまいます。
今日、私たちの前に露骨な宗教弾圧はありません。しかし信仰を貫こうとして妨げるものは多くあります。あふれる情報、様々な価値観、物質的、経済的な社会生活に浸かった私たちは、様々な環境や生活、人間関係が私たちの思うような生き方を妨げることもあるのです。10章の35節以下に書かれている家族や友人たち、近隣との関係がそれを妨げることもあると言っています。
しかしイエス様は言われます。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現わされないものはなく、隠されているもので知らされずに済むものはないからである」「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
私たちは本当に恐れなければならない方のこと、大いなる力を持っておられる方のことを忘れています。そのお方のことを忘れて、目の前のことを恐れ、困難さ、苦しみから逃げようとしているのです。家族に遠慮し、友達から変に思われることを気にし、社会の目を気にしながら歩んでいるのです。
しかし考えておきたいことは、私に命を与え、生かしてくださるお方は誰か、さまざまな能力を与え、生きる力と可能性を与えてくださるお方は誰か、恐れるべきお方は誰かということです。病気でもなく、家族や世間の目でもない、神お一人です。それは終末論的な信仰と言ってもいいと思います。私たちが求める者は、目の前の利益や救いではなく、究極的な救いです。それは目の前ではなく、もっと遠くに目を向けた所にあります。そのために恐れ敬わなければならないのは、その究極の救いをもたらすお方であることです。
イエス様はさらに言われます。「二羽のスズメが一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽でさえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えておられる。だから、恐れるな。あなたがたはたくさんの雀よりもはるかに勝っている。」私たちが神様のことを知らなくても、私たちが神様のことを忘れても、私たちが神様から逃げようとしても、しかし、神様は私たち一人一人を覚えてくださり、あなたにふさわしい恵みと賜物を与えてくださっているのです。
私たちの生活や生き様は、人それぞれ違います。抱えている課題や悩みも異なっています。時には人の生活の方が幸せに見えてしまいます。しかしそうではありません。みんな不安や迷い、苦しみや葛藤を抱えながら生きているのです。そのような私たちを神様は覚えていてくださいます。決して忘れたりされません。あまりにつらいことが多いと、なぜ私だけ、なぜ私だけ、神様は私のことをお忘れになっておられるのではないかと問いたくなります。しかし、神様は決してあなたのことを忘れてなんかおられないのです。あなたの痛みや苦しみを一緒に負い、感じながら、それを克服する道と力をあなたに与えておられるのです。
ですから、私たちもしぶとく神様に従って行きましょう。ある時はその結びつきが弱く感じる時があっても、神様は私たちをとらえて離されることはないのです。