世の終わりまで共にいる
マタイによる福音書 28: 16 – 20
「あなたがたがわたしを知っているならば、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、すでに父を見ている。」「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる。」ヨハネ福音書は、イエス様はご自分と父なる神が一つであることを繰り返して言われてきたことを記しています。従って、今日の福音書の日課の中で、父なる神様が全能の神として全ての権威をお持ちであるならば、一つであり、ひとり子であるイエス様が「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と言われていることは少しも不思議なことではありません。さらにそう語られるイエス様は十字架の死と復活を経て、全ての人の救いを実現されたのですから、その権能はゆるぎないものでした。その権能を持って弟子たちに命じられます。それはすべての民をイエス様の弟子にすることであり、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けること、そしてイエス様が命じられた教えを守るように教えることでした。洗礼を授けることと教えを守らせること。この順序は何気なく書かれているようで大切な意味を持っています。普通私たちが考えることとは逆だからです。私たちは、洗礼ということを考える時に、その教えを守っているか、あるいは守る覚悟があるかと自分に問いかけます。そして正直なところその結論を出せないまま、洗礼を受ける人もあれば、先延ばしにする、あるいは断念します。ところが、イエス様が弟子たちに命じられたことは、まず洗礼を授けることでした。教えを守ることは、洗礼の次のことです。それは習い事や芸事のお師匠に入門するのに似ています。入門する時には業やその心を習得してから入門するのではなく、入門してからその道に励むのです。洗礼も教えを守ることの覚悟や実績が問題になるのではありません。イエス様の招きに応えるかどうかだけであり、それも多くの場合聖霊の神様の後押しをフッと感じて洗礼を受けるのです。しかしそうはいっても、何もないところで洗礼ということが起こるわけではありません。そこでは神様が大いなるお方として自分の前におられることを感じることは必要でしょう。自分の前に何がしかの自分を超えるお方がいる、これを意識することは信仰の最低条件であり、場合においては十分条件とも言えるかもしれません。自分を絶対化せず、自分と他なる存在を絶対的なお方とすることは信仰の芽生えであり、それは信仰者にとって最後まで大切なことだからです。
その神様はどんなお方でしょうか。今日は三位一体祝日です。教会の暦は通常イエス様の生涯をたどりながら決められていますが、この主日は唯一教義的な主日です。三位一体とは、神様を父と子と聖霊の三つでありながら一人の神としてあがめる信仰です。それは三つの神様がおられるのではもちろんありません。さらに、一つの神様が三つのお姿を持っておられるのでもありません。この父と子と聖霊を「位格」と言います。この位格ペルソナとは人格Personの語源となることばで、もともとは役者が舞台で演じる時のお面のことでした。能楽などのお面を思い出してください。つまり役者がそれぞれのお面をつけてそれぞれの役を演じるのです。それじゃ、やっぱりひとりの神様が三つのお姿を持っておられると言っていいではないか。確かにそれに限りなく近いと言うしかないのですが、ひとりの役者が一つの役を演じている場合、その他の役を演じられないわけですから、三位一体はそうではない。たしかに父がおられる時には子もおられ聖霊もおられるのです。ひとりの人がいくつもの役を演じているともいえないのです。それじゃ、どうなんだ、ということになりますが、ひとりの神が、私たちと向き合ってくださるその存在の仕方として、父と子と聖霊の三つの姿として向き合ってくださる。すべての創造者としての父なる神、私たちの苦しみや悲しみを一緒に負ってくださるキリスト、私たちを支え、父なる神とキリストへとつないでくださる聖霊。神様は私たちのその場その場において私たちと共にいてくださるのです。これが多神教の神様と違うところです。たとえば山の神、海の神、火の神、水の神など、日本の中でたくさん祭られている神も、山の神は山を相手に生業としている人にとっては神であっても、海で働く人にとっては関係ないと言えば関係ないのです。陶芸をする人にとっては窯の中には火の神様がいますが、水の神様はそこにいてもらっては困るのです。しかし父と子と聖霊の神様は、どんなときにも父と子と聖霊なる神として私たちの前におられるのです。ひとりの神様が私たちのどんな場面においても相対してくださる。つまり、父と子と聖霊なる神様は、私たちのありとあらゆる場面におられる、まさに共におられるのです。
父なる神様が天地を創造され、子なるキリストが十字架によってわたしたちを罪から贖ってくださり復活し昇天された。いなくなってその代わりとして聖霊を与えてくださった。聖書を読んでいくとそのように、時系列的に考えてしまうのですが、そうではなく、いつもどの場所においてもこの父と子と聖霊なる神が私たちと一緒にいてくださるのです。
「共におられる」これは私たちにとっての神様のキーワードです。イエス様のお誕生の時、「その名はインマヌエルと呼ばれる」と言われました。そして天に昇れる時、永遠にあなたがたと共にいると言ってくださるのです。そして聖霊によっていつも共におられるのです。私たちが礼拝に行く時に、そこにおられるだけでなく、どんな時にも、私たちが神様を忘れたときにも神様は私たちと共にいてくださるのです。