聖霊に動かされて
ヨハネによる福音書 20: 19 – 23
創世記の冒頭に天地創造物語が記されています。その中で人間は土の塵でその姿が形作られ、そこに神様の息が吹き入れられたとあります。
エゼキエル書の37章の預言には、エゼキエルが神様の命令に従って、カラカラに枯れたおびただしい骨に預言すると、骨同士が合わさり関節を作り、筋と肉と皮が生まれました。人の姿ができます。しかしそのままでは生きた体とはなりません。そこに神様の霊が吹きいれられます。そしてそれらは生きた者、大勢の群衆となります。
旧約聖書の人間理解では、人は神様の息、聖霊によって初めて生きたものになると考えています。
今日の聖霊降臨祭の日、弟子達の上に聖霊が降ります。上の二つの聖書の記述とどう違うでしょうか。同じです。弟子たちもまた、死んだ者のようになっていました。愛し、信頼していた教師であったイエス様を失い、それも弟子達は十字架の前で何もすることができず、むしろ裏切って散り散りに逃げまどい隠れていました。そんな自分たちに彼らは絶望していました。私はイエス様を失った悲しみよりも、そんな不甲斐ない、裏切り者でしかない自分に絶望することのほうが、彼らを苦しめるものはなかったのではないかと思うのです。もはや生きる望みも意味も見いだせずにいたのではないでしょうか。たしかに彼らは復活の主に合いました。天に上げられた姿も見ました。しかし、自分自身を振り返った時には、生きる価値をどれだけ見いだせたでしょうか。彼らもまた死んだ者のようになっていたのです。そんな彼らの上に、聖霊が炎のような舌の形を取って、分かれ分かれになり、一人一人の上にとどまったのです。そうするとどうでしょう、弟子達は聖霊に満たされ、それまで人前に出るのも恐れていた彼らが、人前に出るだけでなく、いろいろな言葉で話しだしたのです。明らかにそこには大きな変化、彼らにとっての大転換が起こったのです。
私は今日の聖霊降臨の記述の中で、「聖霊が一人一人の上にとどまった」ことに注目したいと思うのです。聖霊は十派ひとからげにまとめてではなく、一人一人の上にとどまったのです。そしてそれは、神様の力がその人に必要なものをふさわしい形で与えられたということです。
私たちの社会は、特別な人だけが「ひとり」として扱われ、そのほかの人々は、国民、都民、区民、あるいは庶民、一般民衆としてしか扱われない社会です。一部の人々のためだけに国があり、ほとんどの人々が、目をとめられることなく数字としてしか扱われず、なかにはその数字の中にさえ含まれない人々がいるのです。
それは社会だけでなく私たち自身でもそうしています。一人一人個性を持ちながらそれを生かすことをせず、むしろ押し殺し、出来るだけ目立たないように、人と同じように生きようとしています。「出る釘は打たれる」ということわざのように、目立つと場合によってはいじめの対象になりかねません。これはこどもの世界だけでなく大人の世界でも同じです。批判の的になり、抑え込まれたりしてしまいます。しかし、神様は一人一人をその人「ひとり」として見てくださいます。イエス様ご自身も、ご自分を取り囲む大勢の中で、服の裾に触れた一人の女性を必死で探そうとされました。沿道に群がる大勢の民衆の中で木の上に登っていたザアカイに目を留め、彼の家を訪ねられます。弟子達の中でただ一人復活の主に出会うことができず、復活を信じなかったトマスのためだけのために、その姿を現してくださったのです。このように神様は「ひとり」をとても大事にしてくださるのです。
2002年の神戸女学院の新入生歓迎会で小松原瞳さんという方が、新入生に向かって次のような言葉をかけました。とても素晴らしい言葉ですので、ご紹介したいと思います。「人類が誕生したその昔から、この地球上に、どんなに多くの人間が生まれ出たことでしょう。しかしその中に『あなた』はいなかった。現在(いま)、この地球上に、数十億の人間が生存しているという。だが、その中に『あなた』は一人しかいない。これから先、長い長い地球の未来に向けて、どんなに多くの人間の命が生まれ出るのか、それは誰も知らないけれど、もう一度『あなた』が生まれ出ることは、決してない。きっと、『あなた』より勉強のできる人はいくらでもいるでしょう。『あなた』より速く走り高く飛ぶ人もいくらもいるでしょう。しかし、『あなた』と同じように考え、同じように悩む人は決していないのです。『あなた』と全く同じに生き、『あなた』と全く同じ価値を持つ人は、決していないのです。過去にも未来にもたった一つのかけがえのない『あなた』の命、ふたたびはない『あなた』の人生、『あなた』のゆくてには、『あなた』しかできないことが、『あなた』にだけ結ばせることのできる、実があるはずです。」
聖霊降臨による弟子達の大きな変化、大転換は命の主体の変化です。私の命が私の命だけにとどまる時には、その私が絶望的になった時には、もはや生きる力はありません。しかし、私の命がわたしの命であると同時に、その私の命を通して神様がみ業を起こそうとされるのを知った時には、そこには新しい命の営みがあるのです。パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と言っています。弟子達が大きな変化を遂げたのは、その命の源である聖霊を受けたからです。もはや彼らは自分たちの身を守るということには目もくれず、与えられた福音を伝えることだけに生きるのです。
この聖霊は私たちにも与えられています。パウロがダマスコ途上で復活の主とであったような、マルティン・ルターの宗教改革の福音理解に至ったいわゆる「塔の体験」のような聖霊との劇的な出会いもあれば、そうでない出会いもあります。聖霊は聖書では息とか風と訳される言葉で、イエス様ご自身もニコデモとの対話で「風」という表現を使われています。風は強く吹いたり弱く吹いたりします。強く吹いたときには、私たちはそれをすぐに感じることができますが、弱く吹いているときには気にとめることもありません。木の葉の揺れ具合を見て、ああ風が吹いているなと感じたり、あえて意識するならば肌に感じることができます。聖霊はいつも私たちに働いています。それはいつも同じではありません。また受ける私たちも同じではないのです。しかし多様な仕方で降り注ぎ、働く聖霊は、確かに私たちひとりひとりに与えられ、私たち一人一人をふさわしい仕方でキリストに生きる大きな変化へと導くのです。