真理の霊
ヨハネによる福音書 14: 15 – 21
「会うは別れの始まり」ということわざがありますが、人は人生の中で出会いと別れを繰り返します。誕生による両親や家族との出会い、幼なじみ、友人との出会い、恩師との出会い、仕事や趣味での出会いなど、多くの人と出会っては別れます。
別れはその人の心の深いところに影響を与える出来事です。
福音書の日課は、イエス様の最後の晩餐の席上での言葉です。イエス様はここで別れを切り出されます。しかし弟子たちはイエス様の十字架を本気でとらえていませんし、それを本当の別れと気がついていないからです。それがショッキングな形で思い知ることになるのは、イエス様が十字架にかけられる日の騒動によってでした。
弟子たちはその日まで気がついていませんでしたが、イエス様が前もって語られる言葉には心がこもっていました。ヨハネ福音書の個所は、イエスさまが弟子たちに語られた長い別れの説教の中の一部です。ここでイエス様は、「父にお願いして別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいることにしよう」と言われています。ここで言われている弁護者は聖霊です。聖霊は父なる神様がイエスさまの名によって遣わされるものです。イエス様は「あなたがたはこの霊を知っている」と言われますが、弟子たちがわかっていたとは思えません。しかし、反対に聖霊は弟子たちのことを知っており、弟子たちの内で働くと言われます。私たちもその姿を知ることができませんので、その働きによってその存在を受け止めるしかありません。聖霊の一番の働きは、イエス様とイエス様を信じる人を一つにするという働きです。たとえイエス様との別れが起こったとしても、一つであり続けるのです。私たちはイエス様との別れどころか、直接会ったことがありませんので、むしろ聖霊によって知らされていると言っていいと思います。私たちは教会に来るようになったことを偶然と考えるでしょうか。自分の意志と決断と考えるでしょうか。普通はそう考えます。しかし、そこには聖霊の神様の働きがあります。私たちがイエス様を信じることが出来るのも、その意味で聖霊がわたしたちに働いているあかしでもあります。パウロがコリントの信徒への手紙一12章3節で「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と言うとおりです。聖霊の働きは自由です。一様ではありません。同じように神様のことを伝えても、そこでイエス様に出会うかどうかは同じではないのです。ある人にはその瞬間、その場で、ある人には違う機会が備えられ違う場所で働くのです。私たちにできることは、その時が与えられるように、与え続けられるように聖霊の神様に祈るのです。
弟子たちはこの時点で、イエスさまの十字架のことを理解していませんでした。イエス様ご自身も「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言っておられます。弟子たちはイエス様の十字架と復活の後、聖霊によってすべてを悟ることが出来るようになるのです。そこにはイエス様の十字架による別れの意味、そしてイエス様が天に昇られる昇天も意味もまた聖霊によって知らされるのです。
さて、今日の福音書はもう一つのテーマを持っています。それはイエス様を愛する人がイエス様の掟を守っているということです。神様の本質は愛です。それはイエス様の十字架によって私たちに実現しました。私たちはどこまでも神様の愛されています。それはどんなに私たちが神様を無視しようと神様から離れようとも、私たちにその実感がなくても、旧約聖書のヨナが引き戻されたように神様の愛は私たちを追いかけるのです。それは一見、愛のない世界においても、愛に見放されたような厳しく悲惨な現実があっても、そこには神様の愛があるのです。なぜなら、厳しく悲惨な現実を受けるためにイエス様は十字架にかかられたからです。この愛を知ること、そしてこの愛に生きることが、神様が望んでおられることです。普通に考えるならば、愛が満ち溢れる所には悲しみや苦しみがあるはずがないと思いがちです。しかし現実には悲しみや苦しみのない場所などありません。むしろ悲しみや苦しみがあるからこそ、そこで愛が働くのです。力を発揮するのです。
愛はどのように働くのでしょうか。それは人を通して働きます。信仰者を通してだけでしょうか。いいえ、そうではありません。聖霊は確かにイエス様への信仰を促します。しかし、働きはそれだけではありません。愛の働きを実行させるのも聖霊の働きです。なぜなら悲しみや苦しみの場所で愛が働くからです。少しどうどうめぐりになってきましたので、実際の姿を思い浮かべましょう。最初に申しあげたように、災害は数多くの別れを生みだし、そこには嘆きやうめき、絶望や混乱、苦しみや悲しみを生みだしました。しかし、そこに寄せられる全国からの善意や愛は、被災者を慰め、いやし、励まし、勇気づけ、再び生きる力を与えているのです。当事者ではない私がこのように言うことはとても自分で薄っぺらいことのように思えますが、しかし、それは確かなことだと思います。神様の愛が人を通して確かに伝えられ、働いているのです。もちろんほとんどの人は、それが神様の愛とは思ってもいないでしょうし、愛を実行しているという気持ちもないかもしれません。ただ困っている人を助けたいというその一言だけかもしれません。しかし、それこそが神の愛の姿だと思うのです。愛は特別なことではありません。神様は人の心に自然に働かれます。そこにイエス様も一緒におられるのです。信仰という姿を見せないかもしれません。しかしイエス様はそこに確かにおられ、共に働いておられるのです。