2023年5月7日 説教 松岡俊一郎牧師

神様に至る道

使徒言行録 7: 55 – 60, ヨハネによる福音書 14: 1 – 14

説教の動画をYouTubeで視聴できます。

私たちの日常には、様々なことが起こります。けがや病気、災害や事件、家族や人間関係の難しさ。私たちはそれらのことに心が奪われ、不安と動揺の中で暮らしています。このような私たちに、イエス様は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われています。
福音書の個所は、十字架にかかられる前に弟子達と食事をされた最後の晩餐での説教の一部です。イエス様はこの席でこれから起ころうとする十字架の出来事について語られます。それは十字架の出来事だけでなく、それに伴う弟子達の行動についてです。今日の個所の少し前ですが、イスカリオテのユダの裏切りです。そしてそれだけでなく、イエス様のためなら命を捨てますと断言するペトロがイエス様を知らないと拒否するという予告です。これら一連のイエス様の言葉によって弟子たちの間には一層の動揺と不安がひろがりました。そんな時に「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」とイエス様は言われるのです。

イエス様は、「わたしがどこへ行くのか。その道をあなたがたは知っている。」と言われますが、トマスは「主よ、どこへ行かれるか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と答えます。イエス様の再三の受難予告にもかかわらず、それを理解することができませんし、その先、イエス様が十字架につけられることなど想像もつかなかったのです。
さらにイエス様は「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」と言われます。大変有名な言葉ですが、ここで言われている「道」を皆さんはどのようなイメージで受け取っておられるでしょうか。当時の道は、当然のことながら現在のような平坦な舗装道路ではありませんでした。幹線道路にはローマの力によって石畳が敷かれていたかもしれません。しかし、たいていの道は石ころだらけであり、乾季にはほこりが舞い、雨季にはぬかるみ、地方に行けば道とは言えないような道が普通であったに違いありません。そこを人々はサンダル状の靴で、泥だらけ、ほこりまみれで歩いていたのです。

イエス様がご自分を「道」と言われるとき、それはどういう意味でしょうか。そしてその道はどこに通じているのでしょうか。言うまでもなく、その道は父なる神様に通じる道です。
天地創造の初め、神様は人を愛するために人間を創造されました。しかし人間は神様を愛することが出来ず、神を神としてあがめることが出来ず、自分を神としたのです。これが罪です。この罪によって神様と人間の関係は破綻しました。つまり人は直接に神様と関係を持つことが出来なくなったのです。しかし神様の愛は不変です。人間が神様を愛することが出来なくても神様の愛は変わらないのです。その愛の実現、関係の修復のために神様は独り子イエス・キリストをお遣わしになったのです。
イエス様がご自分を「道」と言われるとき、それは私たちを神様のもとにつなぐ道です。人間が直接に神様と関係を持つことが出来なくなったために、イエス様という新たな道が備えられたのです。

神様の御心を知る、神様とひとつになる、人々が願う平安の究極のありかはそこにあるのです。そこに至る道が、イエス様ということです。しかし、イエス様の示される道はデコボコです。平坦ではありません。イエス様ご自身が様々な騒動に巻き込まれ、十字架という悲惨な最期を遂げられたように、それに続く弟子達も様々な困難や不安に巻き込まれていくのです。つまりイエス様とイエス様に従う者の歩む道は、いつも苦悩と困難、不安がつきものだということなのです。

今日の第一の日課、使徒言行録ではステファノの殉教が語られています。ステファノはイエス様を証しする説教をしました。そこにはユダヤ人たちには耳の痛い言葉もあったのです。これに怒った人々はステファノに襲い掛かり石を投げて殺したのです。ステファノは復活の主に祈り、平安を求めたのです。苦しみの中での平安でした。

私たちはイエス様に従う時には平安があると思っています。ですから、いつも不安を感じ、いろいろな出来事に振り回されている自分を見ると、イエス様を信じているのだろうかと不安になります。この世の事柄に目を奪われるとき、信仰の世界からは遠く離れているように思えてしまいます。しかし、今日の使徒書や福音書をみると、そのようなおろおろしている私、迷っている私、ふらついている私、苦しみの中で一見イエス様と離れているような私こそがイエス様の道を歩んでいる。いや、イエス様ご自身が私とひとつとなって歩んでくださっているのです。

イエス様はご自分のことを、「道」だけでなく、「真理であり、命である」ともおっしゃっています。さらに「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」と言われます。真理と命は、穏やかで平坦な場所ではなく、荒々しく、騒々しく、不安な場所であっても、イエス様と歩むところにあるのです。一見矛盾するような状態です。「そんな不安定、騒々しいところに平安があるなんておかしい」と言いたくなります。しかしそれは私たちに対する大きな慰めでもあります。なぜならば、私たちは私たちを取り巻く騒々しさや混乱や苦悩、不安からなかなか抜け出すことができていないからです。とすると、私たちは永久に神様の真理と命に与ることができないのです。それを手に入れることによって与えられる平安に入れられることはないということになるのです。しかし、イエス様はそうはおっしゃいません。たとえ私たちが混乱と苦悩の中にあっても、不安と悲しみ、さらには孤独や絶望の中にあっても、いや、その中にあってこそ、イエス様ご自身が共にいてくださり、私たちに真理と命、平安を与えてくださるのです。「インマヌエル(神様が共におられる)」イエス様はお誕生の時に、そう呼ばれました。その名の通り、イエス様はどんなときにも私たち共にいてくださり、私たちを真理と命に導く道であり続けられるのです。