疑いをもたらす復活
ヨハネによる福音書 20: 19 – 31
私たち教会では、復活のことがあたり前のように語られますが、復活とは死からのよみがえりですから、普通のことではありません。普通ではありえないことなのです。ですから誰かが復活したと言われたら、そこには疑いしかないはずです。イエス様の復活に出会った弟子たちもその疑いに捉えられていました。
イエス様は復活されたその夕方にも、弟子たちの前に姿を見せられました。聖書は「弟子たちがユダヤ人たちを恐れていた」と記しています。イエス様が十字架につけられ、弟子たちは自分たちも捕らえられることを恐れていたのです。それだけではありません。十字架の前で弟子たちはイエス様を裏切り、ちりじりに逃げ惑っていました。その裏切った自分たちの弱さとうしろめたさによって心を閉ざしていたのです。
しかしイエス様はそのような弟子たちを派遣されます。まず聖霊を与えられます。この聖霊の働きによって、弟子たちは力と使命が与えられます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたがを遣わす。」それも「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言われるのです。与えられる務めは、他者の、私たちの隣人の罪をゆるすための派遣なのです。派遣をするということは、務めを与えるということです。それは信頼がなければ起こらないことです。イエス様は裏切った弟子たちを以前と同じように信頼され、務めを与えられるのです。しかしその務めは弟子たちには重いものでした。人の罪をゆるすのです。私たちは、イエス様が山上の説教で指摘されたように、自分の目の中の丸太に気がつかず、他人の目の中のおが屑が気になって仕方がないように、自分の罪に気づかず、気づいたとしても棚に上げて、人の欠点、人の罪を問題にし批難するのです。ただでも裁くことは得意として、赦すことは苦手なのに、イエス様は罪をゆるすように求められるのです。もちろんイエス様は、それが自分たちの力ではそれが難しいことはご存知でした。だからこそ、聖霊を送られるのです。聖霊の力によって初めて弟子たちは罪をゆるすことが出来るのです。ですから、赦さない罪はそのまま残ると言っても、罪の赦しの権限が弟子たちにあるのではないことは明らかです。それは神様がお決めになることです。そして神様の意志は、独り子を十字架にかけるほどに深い愛であり、赦しの心ですから、それを託された弟子たちは、自ら罪のゆるしを実践するように求められるのです。自分に向けられた罪をゆるすことは、赦す側にも痛みを伴います。それはイエス様が十字架の苦しみを負われたと同じです。しかし、イエス様はそれを求め、そのために弟子たちを派遣されるのです。
「疑う者もいた」「信じられなかった」福音書の復活の証言の中には、復活を信じられない人がたくさんいたことが述べられています。それは福音書が復活は信じられないことであることを承知していると言ってもいいと思います。しかし、福音書記者たちは一生懸命復活について述べます。それは復活が福音の確信、救いの中心であるからです。
疑いは信頼の欠如です。そこには信頼によってもたらされる平安はありません。平安がもたらされないどころか、疑いの呪縛から逃れられないのです。そこには孤独があり不安があります。そのことがトマスの姿に現れています。
復活の主イエス様が十一人の弟子が集まっておられるところにその姿を現わされた時、主だった弟子たちの中でトマスだけがそこにはいませんでした。トマスが再び弟子たちと会った時、彼らの間ではイエス様の復活の話でもちきりだったと思われます。他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」というと、トマスは「あの方の手にくぎの後を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったのです。この時のトマスの気持ちはどんなものだったでしょう。私は彼がことさら不信仰で、疑い深かったとは思えません。不信仰でイエス様に従い得なかったのはペトロを始め他の弟子たちも同じでしたし、復活を信じられなかったのも他の弟子たちも同様だったからです。確かに復活は謎です。誰しも実際に確認してみなければ信じないという気持ちはあったかもしれません。それはむしろ復活に対する普通の感覚だと思います。確かめなければ信じられない、証明できなければ存在しないというのは、現代人の私たちの価値判断でもあるのです。
しかし神様は人をはるかに超えるお方ですから、神様の存在や起こされることがらを、ないと言い切ることは人間の傲慢にすぎません。
もう一つの点は、トマスの感情です。彼の中には、他のみんなは復活の主に出会っているのに自分だけが会っていないという疎外感や孤独感、やっかみや不安感です。そこから不信が生まれ、イエス様を信頼することが出来ず、その心は疑いとなるのです。この疑いはトマスを縛ります。彼は福音の喜びを自分のものとすることが出来ずにもがくのです。信仰はこの縛りを解きます。人を解放し自由にします。自由になると、喜びが生まれるのです。しかしトマスはこの時点ではまだ縛りの中にいたのです。
イエス様はそんなトマスの気持ちを知っておられました。一週間後の週の初めの日、弟子たちが扉に鍵をかけて集まっていた時、イエス様はおいでになりました。挨拶の後、すぐにトマスのところに来て「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。またあなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われました。イエス様は直接確かめないと信じないと言ったトマスを信じさせるために、わざわざご自分をお示しになったのです。孤独になり、心がかたくなになった一人の弟子をもほおっておかれないイエス様の愛のまなざしがここにあります。そして「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と諭されます。信じられないトマスを責めておられるのではありません。断罪され捨てるのではなく、捉えるためにわざわざトマスのところにおいでになったのです。
イエス様の心をトマスもまた受け止めました。もはや彼はイエス様の手のひらやわき腹を確かめることをせずに信じたのです。さらにイエス様は「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われました。これはトマスを責めているのではありません。いつくしみと招きです。この招きによってトマスを縛っていた疑いの綱は解き放たれるのです。
信じる者になる。見ないのに信じる。これはこれから後、イエス様との出合い方を示しているように思います。パウロはコリントの信徒への手紙で復活の主は100人以上の人たちに同時に現れたと言っていますが、それでも直接復活の主に出会った人はごくわずかな人でしかありません。イエス様はやがてイエス様は天に上げられ、その姿が見えなくなってしまいますし、復活の主に出会った人たちも死んでしまうのです。後の時代の人々は誰もイエス様にお会いすることはできないのです。つまり、復活は、トマスに対して「見ないで信じる者は幸い」と言われたように、確認して確かめるものではなく、言葉として信じることへと変えられるです。この言葉を信じる時には、人はどんな時にも、どんな場所においても、復活の主と出会うことができるのです。
さらに聖書は、復活の主が日曜日のたびごとに弟子たちに会われたことを記しています。これは明らかに日曜日の礼拝を意識してのことでした。私たちは今、イエス様を目に見える姿で見なくても、みことばを通して私たちは復活の主と出会うのです。見える姿において、また確かめるという仕方は、場所と時間と感覚に制限されます。それ以外の場所で出会うことはできません。しかし、みことばは無限です。どんな場所でも、どんな時代においてもイエス様と出会うことが出来るのです。そのみ言葉が今日も語られるのです。