主が語られた私たちへの義と愛のメッセージ
ミカ書 6: 1 – 8, コリントの信徒への手紙一 1: 18 – 31, マタイによる福音書 5: 1 – 12
●主の恵みの御業を忘れたのか
先ほどお読みいただいた本日の旧約聖書の日課、「ミカ書」6章では、「聞け、主の言われることを。」と主が語り始められます。何を聞けと言われているのでしょうか。
指導者モーセを立て、雄弁な兄のアロンと賛美を導く姉のミリアムを補佐とし立てたではないか。そして、イスラエルの民、あなたがたを導き、幾多の奇蹟を起こして、エジプトの奴隷状態から解放したではないか。あなたがたが葦の海(紅海)までたどり着いた時、エジプト軍が背後から追いかけてきて、絶体絶命となりそうになった時、激しい東風で海を押し返し、乾いた地に変えたではないか。あなたがたが安全に渡れるようにし、追いかけてきたエジプト軍が渡ろうとした時に、海を元に戻して全滅させたではないか。
あなたがたが、モアブの平原に宿営していた時、モアブの王バラクは、あなたがたをこの国から追い出そうとしたことを覚えているか。その時、占者(せんしゃ)バラムを招いてあなた方を呪わせようとしたが、バラムに3度もイスラエルを祝福する託宣をさせたではないか。そして、モアブの王バラムに、あなたがたを追い出すことを諦めさせたではないか。
モーセの後継者、ヨシュアがあなたがたと共にシティムを出発してヨルダン川を渡る時、ヘルモン山の雪解けのため増水していたことを覚えているか。しかし、祭司たちが足を踏み入れると、奇蹟的なタイミングで川の上流の障害物により水をせき止め、干上がらせたではないか。あなたがたを渡ることができるようにし、ギルガルに宿営できるようにしたではないか。この御業を見た周辺の王たちは、もはやあなたがたに立ち向かおうとはしなかったではないか。
主の恵みの御業を忘れたのか、と主は語られます。
●主が求めておられることとは
神さまは、驚くべき奇蹟を非常に長期間にわたって継続的に起こされました。300万人ものイルラエルの民を、シナイの荒野で養い続けられたのです。それなのに、民は幾度もつぶやき、愚痴をこぼし、逆らい続けたのです。これぞ、私たちの姿そのものです。
それでも、神さまは、そんな民をおしまいにすることはなさらなかった、いや、おできにならなかった。神さまは、全てのことをおできになる全知全能の永遠の存在であられます。しかし、一つだけおできにならないことがあるのです。それは、ご自身のご性質である「義」と「愛」に反することだからです。そのような主が求めておられることとは何でしょうか。「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ書6: 8)と主は語られます。
さて、私たち人間は、自らの力で主が求めておられることができるでしょうか。非常に残念ですが、どう考えても無理です。なぜなら、とても悲しいことですが、人間は、最初に創造されたアダムとイブの時代にすでに堕落してしまったからです。こればかりはどうしようもありません。既に起こってしまったことですから。神さまは「義」であり、「愛」であられるがゆえに、旧約の時代には、律法を破った人間の代わりに動物をいけにえとして殺すことによって、人間の罪を見逃してくださいました。しかし、それでは罪からの完全なる解放には至りませんでした。なぜなら、人間はそれほどまでに罪が深く、身勝手だからです。
●「義」と「愛」の主の完全なる新しい契約とは
そこで、神さまはどうなさったのか。主は「義」なる「愛」なるお方なので、完全なる新しい契約を、主ご自身が非常な痛みを負われることによって、与えくださいました。あたかも旧約時代のいけにえのように、主が求めておられることをできない私たちの身代わりとなってくださったのです。マルティン・ルターはこう表現します。「イエスご自身が、あざけられ、汚され、ののしられ、恥ずかしめに満ちた取り扱いを受けて、鞭打たれ、最後には、神を冒瀆する者、謀反人として十字架につけられ、屈辱のうちに死刑に処せられたのです」。なぜ、それほどにまでの屈辱と苦痛をお受けになられたのか。神は「義」であり「愛」だからです。
これほどまでの「義」と「愛」を、主イエス以外に見聞きしたことはついぞありません。主の「義」の徹底さ、「愛」の広さ、深さ、いや、涙が出るほどの美しさの極みを知ると、この現実の世の中にどれほど醜いこと、悲しいこと、辛いこと、がっかりさせられることがあろうとも、決して希望を失うことはありません。
●私たちの弱いところに神の栄光があらわれる
先ほどお読みいただいた本日の使徒書の日課、「コリントの信徒への手紙」1章の後半を読みますと、キリスト教会は、実は、弱いものによって始められたことがわかります。マルティン・ルターはこう語っています。「キリストは、聖書を学んだことのなかった教養のない愚直な漁師たちによって、御国を始められたのだ。(しかし)彼らはいかに確信をもってメッセージを語ったことか。あたかも十万年も学んできて完全知った人のようだ。私(ルター)は神学博士で、彼らはそれまで聖書を学んだことのない漁師だったが、私はかれらのように聖書をものにすることはできなかった。」と。そして、「私たちが弱くなければ、キリストは私たちの上に力を行使することはおできにならない。私たちの弱いところに神の栄光があらわれるのだ。この世の目には明らかに弱く見えるとき、・・・、神は私たちを取り扱ってくださって、恐れず、失望しないようにしてくだる。」と。「誇るものは主を誇れ」と書いてあるとおり(コリントの信徒への手紙一 1: 31)です。決して希望を失うことはありません。失望に終わりません。なんと感謝なことでしょう。
●「幸い」者の小さな群れであるキリスト・イエスにある罪びとの教会
本日の福音書の日課、「マタイによる福音書」の「山上の説教」の冒頭の12節は、希望を失わない、失望しない、ということを、真正面から「幸い」と捉えて、イエスさまが教えておられる箇所と言えましょう。もちろん、この世的な幸せを期待して読むとズッコケます。この世の価値基準とは真逆だからです。しかし、今日お話ししてきたことを踏まえるならば、「へりくだって神と共に歩む」者(ミカ書 6: 8)、「世の無に等しい者、身分の卑しい者、見下げられている者」(コリントの信徒への手紙一 1: 28)こそ、神さまのみ心にかなった「幸い」な者だということがわかります。マルティン・ルターは言います。「その(キリスト・イエスにある教会、すなわち、罪びとの)教会には、元気を失った弱い人々、病人、そして自分の罪とみじめさとあわれさとを自覚し、神に向かって絶えず叫び、慰めと助けを求めてため息をつき、しかも罪の赦しを信じ、みことばのために迫害を受けている人々がいる。私(ルター)はその小さな群れとともにいることを望む。」と。キリスト・イエスにある罪びとの教会、その小さな群れこそ真に「幸い」な者なのです。
19世紀のイギリスの著名な説教者であるCharles.Haddon.スポルジョンは言いました。「悲しむ者は、いつかは祝福されるのではなく、その人は今すでにキリストから「幸いな者」と呼ばれているのである。」と。マルティン・ルターの言葉で終わりたいと思います。「キリストと神のことばにすがり、・・・キリストのみを告白し、他の何ものをも神としない・・・もしもこのようなことを見聞きするならば、そこに聖なるキリスト教会があることを知る。・・・「喜びなさい。喜び踊りなさい。天ではあなたがたの受ける報いは大きいから」・・・この聖なるしるしにより、聖霊はその民をきよめるだけでなく、祝福もされる。」と。
このルーテル大岡山教会、ここに聖なるキリスト教会の小さな群れがあることは、何たる恵でしょうか。神さま、心から感謝します。