真の王の赦し
ルカによる福音書 23: 33 – 43
今日の日曜日は教会の暦の最後の主日になります。与えられた福音書の日課はイエス様が十字架にかけられる箇所で、ふつうは十字架の箇所は受難週に読まれますから、こんな時期に与えられるのは意外に思えます。今日の主日は「永遠の王キリスト」となっており、以前は「王なるキリストの日」と呼ばれていました。いずれにしてもキリストが王として私たちの前におられることを覚える日です。そこでイエス様が王であるか問われた時の、十字架の時の箇所が選ばれているのです。
聖書は世の終わりの時に、キリストが王として再び来られ栄光をお受けになることを示しています。それではキリストはどんな王なのでしょうか。日本においては、王様はいませんので、イメージがわきにくいのですが、先日、イギリスのエリザベス女王が亡くなり、壮大な葬儀が行われ、世界にその様子が配信されました。王の権威というものをまざまざとみることが出来ました。
イエス様が十字架にかかる前に、ローマの総督ピラトの前に連れてこられます。ピラトはキリストがどんな王なのか気にしています。権力者は自分の地位を危うくする存在を警戒します。ヘロデ大王が東方の博士たちによって新しい王が生まれたことを知らされ、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を虐殺したことが思い出されます。ピラトにとっても王とは政治的な支配者以外にはありません。
ピラトはイエス様に「お前がユダヤ人の王なのか」とただします。当時は、ユダヤはローマの支配下にありましたから、ここで言われている「ユダヤ人の王」とは、ローマの支配から解放を企てる者という意味で使われています。ところがピラトが目にしているイエス様は、ローマ帝国に対抗できるようにはとても見えない。権力も武力もなく、みすぼらしい姿でピラトの裁きの前に立っておられるのです。ピラトにとってはなぜユダヤ人たちが、こうもイエス様を糾弾しようとしているのか理解できなかったし、そもそも関心もなかったのです。
今日の福音書の個所は、ピラトとの問答ではありません。まさに十字架につけられた時、兵士たちや民衆、議員たちが語った言葉です。「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。兵士たちにとってはまさに自分が従い、自分を支配する人が王ですから、十字架にかかるようなみすぼらしい王はあり得ないのです。
イエス様はヨハネ18章36節で「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」と言われます。しかしピラトにとってはイエス様がこの世の国に属していないならば、何の問題もないはずですが、そもそもこの世に属さない国があるなどということが理解できないのです。イエス様にとって神の国とは、神様の支配です。本来、神様の支配はこの世にも及んでいるはずですが、多くの人々はその支配を受け入れていません。この神様の支配、神の国は弟子たちにとっても理解が難しいものでした。
イエス様が受難予告をされた後、弟子たちは自分たちの中で誰が一番偉いかと論じ合いました。ヤコブとヨハネの母は、イエス様が王座にお着きになる時に、自分の子どもたちを、偉い地位につけさせて下さいと願い出ました。これは母だけの願いではなく、弟子たちがみんな抱いていた願いでした。つまり、極端なことを言えば、弟子として仕える見返りに、終末の時に偉い地位につけてほしいと願っていたのです。このような弟子たちの思いに対してイエス様は「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われています。さらにイエス様は最後の晩餐の時に弟子たちの足を洗われました。その時、ペトロは畏れ多いこととして辞退しました。しかしイエス様は「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われています。つまりイエス様の仕えるという行為、出来事、それこそが救いであり、それを受け入れることによって救いの関係が結ばれることなのです。足を洗うという行為は、十字架によって自分の命を私たちのために差し出すということにつながります。
これらのことからわかることは、神様の国とは神様との関係のことであり、その関係に入ることが大切なのです。それでは神様はどのような仕方で関係を持とうとされているのでしょうか。それは神様の支配の仕方でもあります。一言で言うならば、永遠の王キリストは力によって支配する王ではなく、愛によって仕える王だということです。神様の愛は十字架によって私たちに与えられました。これを私たちが受け入れ、神様の支配を受け入れるのです。
イエス様は仕えるという姿勢、仕えるという生き方を私たちにも求めておられます。それは人の上に立つという私たちの常識、社会で生きるすべとあたかも逆行するする生き方です。しかし人の命の価値、人生の価値は、決して人の上に立つことによって高められるのではないのです。能力のある人、立派な功績を残した人、大きな働きをしている人、それはとても尊いことで、そのような人々を私たちは素直に立派だと思うし尊敬します。しかし私たちの心を揺さぶる人、感動を与える生き方、人生の意味、命の尊さを教える生き方は、それとは違うように思うのです。仕えることこそが、私たちの心に命を与えるのです。
私たちに与えられる救いは、力によるものではありません。キリストの徹底的に仕えるという十字架の愛によるものです。この救いを受け入れ、私たちもまたその愛の生き方、仕える生き方に倣いたいと思うのです。