一人のキリストになること
~「かの日」の約束された勝利に向かって~
テモテへの手紙二 1: 1 – 14
ルカによる福音書 17: 5 – 10
先ほどお読みいただいた本日の福音書の日課は、「ルカによる福音書」17章5節から10節ですが、この17章は「赦し、信仰、奉仕」との副題が付けられています。本日の日課の直前の4節には、イエス様のみ言葉として「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とあります。「主の祈り」における「私たちに罪を犯したものを赦しましたから・・・」を想起させます。そう、「赦し」の箇所です。これに続く本日の箇所は、「信仰と奉仕」の箇所ということになります。
●信仰と奉仕
使徒たちは、一日に七回も赦すためには、今もっている自分たちの信仰では不十分だ、「わたくしどもの信仰を増してください(ルカ17: 5)」と言います。人間的には自然なことのように思われます。しかしイエス様は、こう言われました。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば・・・(ルカ17: 6)」と。より多く赦すために、信仰がさらに必要だ、ということではない、だれも他の人より多くをもっていない、とイエス様は言わんとされたのではないでしょうか。
マルティン・ルター先生は、1530年のルカ17: 5に関する説教の中で、「キリスト者の交わりの中では、だれも他の人より多くをもっていません。・・・父のみこころを行う者はみな同じ宝をもっているのです。・・・けれどもその一方で、あなたがたや私が、バプテスマのヨハネやパウロほどのしっかりした信仰をもっていないことも事実です。・・・それはちょうど、ふたりの人が一杯の酒を手にしていて、ひとりの人の手は震え、もうひとりの手はしっかりしているという感じです。・・・神のみ旨によって、手が強かったり弱かったりするでしょうが、それで中身が増えたり減ったりするわけではありません。それと同じように、宝をしっかりとつかんでいたか否かということ以外に、使徒たちと私たちの間には何の違いもありません。私たちは、預言者や使徒たちと同じ宝をもっているということを、常に覚えておかなければいけないのです。」と言われました。神様は、この同じ分量の「宝」たる「信仰」を、「聖なる招きによって、わたしたちの行いによるのではなく恵によって(第二テモテ1: 9)」、満ち溢れんばかりに私たちに注いでくださっています。
ルター先生は、また、「キリスト者の自由」という有名な著作の中で、「かくも満ち溢れるばかりの宝を私に注ぎ与えてくださった父に向って、わたしもまた自由に、喜びに溢れつつ、価なしに、神の喜ばれることを行いたい。キリストが私のためにされたように、私もまた私の隣人のために一人のキリストとなろう。」と、「一人のキリスト」となることを主体的に喜んで選択する「キリスト者の自由」を力強く表現しています。
このような理解に至ると、弟子たちが言っていたように「わたくしどもの信仰を増してください(ルカ17: 5)」と、信仰の量の多寡を人間的な思いで推し量り、他の人と比較するという発想から脱却して、私たちがどれほどの行いをしたとしても、その行いに必要な信仰と希望と愛とは、結局のところ神様から価なしに一方的に十二分に頂いた恵だ、という「謙遜」な思いに至るのではないでしょうか。
このように見ていきますと、イエス・キリストが、「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば・・・(ルカ17: 6)」に続いて、「自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。(ルカ17: 10)」と言われた、この真意は、自分を「卑下」しなさいということでは決してなく、むしろ真逆で、「キリストを知っている」がゆえに「誇り高く」、同時に、いや、逆説的ですが、それだからこそ「心の貧しい(幸いな)人々(マタイ5: 3)」として、「謙遜」な思いで「一人のキリスト」となりなさい、と言わんとされたのではないでしょうか。
●キリストを知っている確信
「キリストを知っている」こと、これが本日の第二の聖書日課でお読みいただいた「テモテへの手紙第二」の著者であるパウロの確信でもありました。
紀元後64年にローマの大火が起こりました。皇帝ネロが新しい、より壮麗なロ-マを建設するために都に火をつけさせたと言われており、彼はその嫌疑をそらすために、キリスト者をローマ放火の罪で起訴し、残忍極まりない方法で処刑したと言われています。パウロも言われなき嫌疑で逮捕され、ローマの地下牢で殉教の時を待っていました。この手紙は、そのような彼の最晩年に書かれたもの言われています。
処刑を待っている極限状態の中で、パウロは、「自分が信頼している方(すなわちイエス・キリスト)を知っている(1: 12)」と告白しています。「キリストを知っている」パウロは、キリストにある教会に捧げた苦難に満ちた自分自身の人生を、哀れんだり悔いたりする様子は微塵もありません。むしろ、「このように苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。」(第二テモテ1: 12)と言い切っています。そう言い切った時の周りの状況はどうだったでしょうか。キリスト者への迫害がますます強くなり、また、それに輪をかけて、パウロが立ち上げた教会が異端に陥ってしまうという極めて厳しい状況でした。それなのになぜ、そこまできっぱりと言えたのでしょうか。それは、「わたしにゆだねられているもの(すなわち、彼が生んだ、キリストにある教会、すなわちクリスチャンの群れ)を、その方(すなわちイエス・キリスト)がかの日(すなわち、主の再臨の日)まで守ることがお出来になる(第二テモテ1: 12)」とパウロが確信していたからです。
しかし、そのような確信はいったいどこから来ているのでしょうか。パウロは、言います。「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、ご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる(フィリピ3: 20 – 21)」と。パウロの時代の原始キリスト教会は、一時、敗北してしまうかのように見えていたとしても、必ずや「かの日」まで守られ、キリストにある教会は、最終的には朽ちない体として復活し、世に勝利するとパウロは確信していたのです。これこそ「キリストを知っている」確信における究極の希望であり、我々が信仰をもって待ち望んでいる最終ゴールではないでしょうか。
今日の日本を見ますに、古き良き成長の時代が終わり、閉塞感の漂う中、悲しいかなクリスチャン人口は減り続け、追い打ちをかけるように、いつ終わるとも知れないコロナ感染症や気候の激変に悩まされています。そして、世界を見渡せば、信仰の先達たるヨーロッパやアメリカは、もはやクリスチャンを基調とする国々ではなくなっており、今まさに時代の大きな変化のただ中にあるこの世界には、不穏な空気が漂っています。今の世にあって、相対的に、パウロの時代の原始キリスト教会のように小さな群である我々にとって、既に「永遠の命」が与えられていること、そして、「かの日」まで必ずや守られ、最終的には「朽ちない体の復活」に与れるというキリストにある確信は、なおさらのこと、まばゆいばかりの希望の光を放っているのではないでしょうか。
●一人のキリストになること ~「かの日」の約束された勝利に向かって~
どんなときにも「キリストを知っている」という確信の豊かさを噛みしめながら、今週一週間も「一人のキリスト」として、いや、もっと言うならば、「小さなキリスト」として、聖霊に導かれてただただ成すべきことを成して、全てのことについて感謝しつつ生かされる恵に与れますように。そして、まだキリストと出会っておられない方々におかれては、信仰が与えられ、この恵に、一日も早く共に与れるようになることを心から願っております