2022年8月14日 説教 松岡俊一郎牧師

イエス様の苦しみ

ルカによる福音書 12: 49 – 56

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今日の福音書の中でイエス様は「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」と言われています。この言葉を聞くと、私たちは今騒がれているニュースと結びつけて考えてしまいます。元首相を襲った犯人の犯行動機が、母親の旧統一教会への入信と多額の献金によって、家庭が破綻したという出来事です。信仰心が家族の破綻を招く、信仰をもっておられない人々が、これによって宗教はやっぱり怖いという印象を持たれることを恐れます。統一教会はもともとキリスト教を名乗っていました。しかし、その教理は半日、反共産主義で伝道方法はマインドコントロールと呼ばれ自分で考える力をなくす洗脳です。つまり伝統的なキリスト教会とは全く異質で、実態はほとんど宗教に名を借りた政治と経済に特化した事業体であり、詐欺集団と言わざるを得ません。宗教法人となっていることがおかしいと思いますし、名称変更のプロセスを見ても、そこに政治の力が働いていることは疑いの余地がありません。

さて、イエス様は自分が来たことによって分裂が起こると言われています。しかしイエス様の真の狙いは和解であり救いです。信仰によって不安と恐れが取り去られ、絶望から希望へと人を立ち上がらせるのです。しかし今日の個所は、その前には信仰の厳しさがあることを語っています。真の和解の前に、人と人の分裂、家族の分裂、神様と人間の分裂が明らかにされるからです。

平和の君と呼ばれたイエス様、平安あれと語られたイエス様、愛といつくしみの言葉に表されるイエス様の姿とその言葉に慣れている私たちにとって、イエス様の教の言葉は衝撃的です。パウロはコロサイの信徒への手紙1章20節以下でイエス様は和解をもたらすために来られたと語ってきましたし、私たちも聖書からそのように学び、礼拝式の中でも平和の挨拶を交わします。しかし、今日の日課では分裂と対立をもたらすと言われるのです。マタイ福音書では「剣を投げ込むために来た」と言われています。なぜでしょうか。

イエス様は確かに平和の主であり、和解の主です。しかし、その和解の主が来られる時、和解出来ない人の現実、和解どころか欲と権力を求めるために争いをいとわない人の姿がかえって明らかにされるのです。イエス様がエルサレムにこられた時、人々の間に大きなざわめきが起こりました。民衆は救い主、メシアが現れることを期待していたのですが、実際には律法学者や祭司長など宗教者たちが宗教的に支配していましたし、あるいは政治的な権力を握るサドカイ派の人々が民衆を抑え込んでいました。そんな時にイエス様が登場され、人々はメシアと騒ぎ立て、時の支配者たちは自分の地位や権力が危うくなると、イエス様を取り締まるために躍起になったのです。このような人々に現れる姿と混乱をイエス様は分裂と呼び、剣と呼ばれるのです。人の分裂の状態は、人の間だけに留まりません。それは神と人との分裂でもあるのです。人の間に愛が見いだせないところで神様への愛が見いだせるはずがないからです。
確かに人の生活も人生も、愛情と助け合い、支え合いの中で営まれています。しかし、そうでありながら同時に、人は自分の欲望や自己実現、地位や名誉の獲得、偏狭な使命感に躍起になっています。人間の歴史は利益の獲得と争いの歴史でもありました。それは聖霊の火によって焼かれ清められなければならない現実です。イエス様が「その火がすでに燃えていたらと、どんなに願っていることか」と嘆かれたのは、そのためでした。

このような人の分裂と争いの状態の中で、いや、そのような中だからこそイエス様は「しかし、わたしには受けなければならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と言われたのです。ここでの洗礼とは十字架の苦しみと死にほかなりません。この分裂と争いの醜さ、悲惨さ、苦しみを引き受けるために、そして真の和解の礎となるために、イエス様は十字架にかかられたのです。この十字架によって人の罪は清められ、愛と平和に生きる命が造られるのです。

このキリストの救いを知った者は、自ら平和の礎となることが求められています。マタイ福音書は言います。「平和を実現する人々は幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」神様の平安を知った者にとって、欲と権力、争いに満ちたこの世は過ごし易い場所ではありません。絶えずその誘惑は自分の心の内からも、自分の外からも襲ってきます。さらにそこに引き込もうとする力もあります。目の前の安泰にしがみつき、人と違うことを主張したり信じたりすることにためらってしまいます。そのような誘惑と弱さ、力と闘わなければなりません。ヘブライ人への手紙12章7節ではそれらを神様からの鍛錬として忍耐しなさいと呼び掛けています。「あなたがたは、これらを鍛練として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」

大勢の人の声、時代の流れに身を任せることは、自分にとって安全で、楽なことです。もし私たちがイエス様の十字架を知らないならば、それは仕方がないかもしれません。しかし私たちはすでにイエス・キリストが私たちの内なる罪と闘い、罪を取り除くためにその命をかけて死んでくださったことを知っているのですから、わたしたちもまた、決心を新たにして平和を実現し、神の子と呼ばれるように努力していきたいと願うのです。自分の中に弱く卑怯な自分、小ささや情けなさを感じつつも、そこに落胆しつつも、イエス様の呼び掛けにこたえて行きたいと思うのです。

「どうして今の時を見分けることを知らないのか。」 私たちは自然現象の研究に余念がありません。しかしそこには人の力ではどうしようもない神様の力が働いています。聖書の時代の人たちは、今以上にそのことを信じていたと思います。イエス様もそれを認めておられます。ところが同じ神様のご計画によって来られたイエス様が、裁きと救いの鍵として来られたことを人は信じることが出来ないのです。イエス様はそれを嘆いておられます。「今の時」それはまさに私たちにイエス様に従うか信仰の決断を迫る時です。