心の捕らわれからの解放
ルカによる福音書 8: 26 – 39
聖書の時代は、今のような医療や精神医学はありませんでした。説明できないような病気、身体障碍、精神障害などは、悪霊が乗り移った、悪霊の仕業と考えてきました。その上に、人権という考えもありませんでしたから、そこには当然、差別が存在しました。ですから、現代の私たちが聖書を読む時には、この背景を十分注意しなければなりません。ことに今日の福音書の日課は、悪霊という事が前面に出てきますし、ついには悪霊が豚の中に入って崖を下り湖でおぼれて死んでしまうという、奇想天外なお話です。驚きと戸惑いを感じながら、聖書が何を言おうとしているかを考えなければなりません。
イエス様の一行が、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方につきました。平行記事のマタイによる福音書8章を読むと「ガダラ人の地方につかれると」となっています。ガダラはガリラヤ湖畔ではなく内陸部に入ったところですので、後で出てくる豚の群れが崖から湖に落ちておぼれ死んだという記述に合いません。ガリラヤ湖畔に似た地名でゲルゲサというところがありますので、こちらかもしれません。いずれにしても、そこに悪霊につかれた男がやってきます。ちなみにマタイでは二人の男になっています。その男は衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていました。当時の墓は集落の外の荒野にありましたから、そこに住んでいたものと思われます。そして彼は叫びながらイエス様を見るとわめきながらひれ伏し、大声で「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ、頼むから苦しめないでほしい」と叫びました。この瞬間、イエス様と悪霊の勝負はついていました。悪霊の方からギブアップしているのです。このことはイエス様と悪霊との会話でさらにはっきりしてきます。イエス様が「名は何というか」とお尋ねになると、「レギオン」と答えます。相手が名前を答えるということも、敗北を意味していると言われます。そして「底なしの淵」へ行けと命令を出さないように願います。「底なしの淵」とは、悪霊が世の終わりである終末の時に永久に流刑にあう場所であり、二度と人間世界で支配できない場所と言われます。瑞雲と弱気な悪霊ですが、それほどイエス様の力が強大であることを示しています。
そのあたりの山で、たくさんの豚の群れが餌をあさっていました。ユダヤ人にとってひずめの割れた豚は不浄の動物です。この豚が登場すること自体、そこが異邦の地であることを物語っています。そして悪霊はその豚に入ることをイエス様に願い、悪霊が入った豚は、崖を下って湖になだれ込み死んでしまうのです。
まず、悪霊とは何でしょうか。私たちは何かおどろおどろしい存在をイメージします。昔「エクソシスト」という映画が話題になりました。悪魔祓いの聖職者とことです。この映画は、アメリカの少女に悪霊が憑依した事件がモデルになったと言われています。またそれ以前にも1840年ごろから数年にわたってドイツのメットリンゲンという場所で起こったことが記録されています。ゴットリーベンという娘に次々に起こった怪奇現象です。悪霊が彼女に憑依して、様々な怪奇現象を起こした末に、ブルームハルトという若い牧師との闘いが始まります。そして最後に悪霊は「イエスは勝利者だ」と叫び、騒動は収束していくのです。「神の国の証人ブルームハルト父子」という信頼できる本に記されています。悪霊が憑依するという事は実際に起こるのだなあと考えさせられます。
私は、悪霊は突然誰かに憑依するというだけではないように思います。悪霊は神様と敵対する力です。イエス様の荒野の誘惑にあるように、人を神様から引き離そうとする力です。これは誰しもの心の中に存在します。怪奇現象は起こさなくても、私たちはその葛藤の中で生きています。神様を心から信頼して生きるならばどれほど幸せなことかと思いますが、実際の私たちは神様の御心とは違う生き方、発言や行動をしてしまうのです。すでにその時点で、私たちは不安と恐れ、不幸の中にいます。様々なものに捕らわれて、毎日脅かされて生きています。健康や生活、様々な事件や戦争、それらは気が付かないうちに私たちを不安に陥れています。この不安と恐れを克服するために主イエスを神様として受け入れ、神様に自分を支配していただくのです。イエス様が私たちを捕らわれから解放してくださるのです。今日の悪霊につかれた男も、イエス様の力によって悪霊が追い出され、普通の健康な人となったのです。
聖書を見ると、悪霊は最初からイエス様に戦いを挑む様子はありません。それはイエス様が神の子であると知っているからです。福音書記者たちがこの出来事を記録した意図もそこにありました。イエス様が神の子であり、その力は異邦の地にまで及ぶのです。人の力が及ばないこと、人には説明できないこと、どうしようもない苦しみや悩み、その捕らわれから解放してくださるのは、イエス様の力に頼るしかありません。そのことを私たちに教えるために、今日のお話は与えられていると思います。
今日のお話の最後の部分は宣教についての記述です。悪霊が抜けて普通の男の姿に戻ったのを見て人々は驚き恐れます。そしてイエス様を引き留めるどころか、村を出て行ってくださいの言うのです。神様の力を恐れていると言っていいでしょう。
悪霊を追い出してもらった人はというと、イエス様に従うことを願い出ます。しかしイエス様は彼に家にとどまるように言われ、むしろそこで神様が自分に起こしてくださったことを証ししなさいと言われるのです。これは私たちにも大きなメッセージです。私たちはどこかに出かけていって何か大きな伝道の業を行うのではなく、自分たちが暮らしているところで神様の証しをしていくことが求められているのです。