永遠の存在となられる
ルカによる福音書 24: 44 – 53
先日、アメリカの小学校で19人の生徒と2人の先生が、18歳の男の銃の乱射を受けて死亡しました。犯人も死亡しましたから、子どもたちの両親の悲しみはどれほどのものか、怒りのもって行き場がないほどに辛く悔しいのではないかと察して余りあります。なぜ幼い命が無残にも奪われるのか、幼い子供だけでなく、災害や戦争などを考えると、なぜ多くの人の命が奪われるのか。なぜ、という問いが繰り返し沸き起こります。神様の御心がわかりません。そして教会もまたそれに対して答えを持たないのです。ただその神様の考え、意図は分からないけれど、神様が離れておられるのではないということだけは、確かだと思います。「神も仏もあるものか」と嘆くような事態が起こっても、神様は私たちと共におられるのです。その真理を今日のみ言葉から聞いていきましょう。
復活のイエス様は弟子たちが見ている前で、天に上げられました。やがてその姿は雲に包まれて見えなくなったというのです。大変不思議なことです。今から二千年前、今日から考えるならば科学と言われるものが何もない時代ですから、弟子たちは復活に続いて起こったこの昇天の出来事に本当に驚いたに違いありません。いや、科学が進んだ私たちも、もしこの光景に出合ったならば、信じられないこととして受け入れられないのかもしれません。
この出来事は、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。イエス様が天に昇られ、人々の目からその姿が隠されたということは、イエス様がいなくなった、存在しなくなったというのではありません。むしろその逆で、人の視野とか視界という限定される存在から限定されない存在、永遠の存在になられたということを意味します。主の復活を疑ったトマスに代表されるように、人は確かめられるものしか信用しません。ですから、何とかして知ろうとするし、確かめようとします。しかし、実際にはどれほどのことを知ることができるでしょうか。科学の発展は日進月歩です。多くの事柄が解明されています。しかし、反面、ますますわからないことがまだまだ多くあるということを知るのです。普通に考えると、確かめられることは存在し、確かめることができないことは存在しないと考えがちですが、真実はその逆で、確かめられるから存在する、確かめられないものは存在しないのではなく、存在しているものを人が確かめられるか、そうでないかでしかないのです。そういう意味でイエス様の昇天は、イエス様が人によって確かめられる存在でなくなった、確かめられる存在から、信じる存在へと変えられたのです。そしてそれは人の心に沸き起こり、人の考えを縛っている知識や常識という、あらゆる限定を超えられたということです。そのことによって、イエス様は二千年前のイスラエル限定の人から、時代を超えて世界のすべての人に信じられる存在となられたのです。
弟子の一人であったトマスは、他の弟子たちが復活の主に出会ったという話を聞き、自分はイエス様の傷跡を触って見なければ信じないと言いました。そのようなトマスの前にイエス様は現れ「見ないのに信じる人は幸いである」と言われました。見ないのに信じるとは目に見えることに根拠と信頼を置くのではなく、復活に現れる神様の力に信頼を置くことに他ならないのです。そしてトマスは主の言葉通り、確かめることなく、イエス様に触れることなく信じたのです。
ヘブライ人への手紙11: 1には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と言い、さらに「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことがわかっているのです」と言っています。目に見えるもの、確かめられることが存在の根拠ではなく、神様の言葉がすべての根拠となるのです。
たとえ目に見えなくても、たとえその存在を人が確かめられなくても、イエス様はその約束の言葉通り、いつも私たちと共にいてくださるのです。昇天を聞くとき、その不思議さから私たちの気持ちはどことなく引いてしまうのですが、むしろ昇天がなかったならば、イエス様はいつまでも二千年前の弟子たちのイエス様でしかなかったのです。
今やイエス様は時と場所を越えて、私たちのイエス様です。イエス様の十字架の前で何もしなかった、いや何もできなかった弟子たちが感じたように、裏切りによる罪責感、愛する人を失ったという深い喪失感、悲しみ、怒り、くやしさ、仕事や人間関係の失敗による失望や後悔、本人や家族の病気による苦しみ、死を前にした恐怖、そして最初に申し上げた、理由がわからない悲惨な人の死の前での痛みをイエス様は十字架で引き受けてくださいました。あらゆる人の思いに十字架のイエス様は近づいてくださり、私たちの傍らに立ち、共にその辛さを負ってくださるのです。
信じることによる喜びは永遠です。一見頼りなく、不確かであるような信仰こそが、人を神様の救いの確かさに導くのです。イエス様の昇天を目撃した後、弟子たちが大喜びでエルサレムに帰っていきました。それは天使たちから再びおいでになることを知らされ、イエス様がいなくなったのではなく、いつも一緒にいてくださることを確信したからに他なりませんでした。信仰が自然に沸き起こるのでなく、もたらされるものであることを教えています。
イエス様の昇天について、もう一つのことは、それが単なる信仰を要求する不思議なことではなく、それが弟子たちを、そして私たちを福音宣教へと派遣するためのものであったことです。もちろんそれは、聖霊降臨によって確かなものとされますが、イエス様ご自身が言われているように、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」ためなのです。つまり、イエス様の昇天は、過去の一回の出来事ではなく、私たちがイエス様の救いを証しする生活へと変えられること、福音宣教に遣わされる出来事なのです。聖書は、この召天の出来事を境に、イエス様についての直接の記録から弟子たちの働きの記録へと変わっていきます。それは私たちの働きへと変わっていくことでもあります。
悲惨と苦悩に満ちた出来事の前で、私たちにできることはごく小さなものです。しかし、たとえそれがどんなに小さくても、実際にそれを実行することは、神様のみ心を私が実行することであり、救いの証しに他ならないのです。