主は備えてくださる
ヨハネによる福音書 21: 1 – 19
ペトロはイエス様の弟子のひとりですが、初代教会においては信徒たちの中心的な位置を占める存在でした。カトリック教会においても、ペトロが殉教したといわれるローマの司教はペトロの後継者と呼ばれ、司教たちの筆頭としてローマ教皇と呼ばれています。ところで福音書を見ると、ペトロは思いつきで後先を考えずに行動する姿が良く見られます。
そのようなエピソードをいくつか抜き出してみましょう。
- イエス様が湖の上を歩いているのを見て、自分も水の上を歩かせてくださいと願った。(マタイ14)
- イエス様が「あなた方は私を何者だと言うのか」と質問したときに「あなたはメシア、生ける神の子です」と即座に答えた。(マタイ16、マルコ8、ルカ9)
- イエス様がご自分の十字架の死と復活の話をしたときに、わきに連れて行って「そんなことがあってはなりません」といさめた。(マタイ16、マルコ8)
- 最後の晩餐でイエス様が弟子たちの足を洗い始められたときに、最初は「わたしの足など、決して洗わないでください」と言っていたのが「主よ、足だけでなく、手も頭も」と変わった。(ヨハネ13)
- 最後の晩餐でイエス様が弟子たちに「あなた方は皆わたしにつまずく」と言われたときに「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と宣言した。(マタイ26、マルコ14) 「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」とも。(ルカ22)
- ゲッセマネの園で大祭司の手下がイエス様を捕らえに来たときに、剣を抜いて手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。(ヨハネ18)
- 湖のほとりにいるのは「主だ」と聞くと、湖に飛び込んで泳いで岸に向かった。(本日箇所)
単純で思ったことはすぐに言ってしまう/やってしまうというペトロの姿が見えてきます。そして何より「ペトロはイエス様が大好き」というのが読み取れます。ここで挙げたエピソードは、イエス様の言うことは絶対で、ペトロ自身はイエス様のことが好きだからこうしてしまっている、ということが読み取れます。
先週と今週、福音書は弟子たちが復活されたイエス様と出会う出来事が書かれています。先週はトマスとイエス様の物語でしたが、今日はペトロとの物語が描かれています。
ティベリアス湖(ガリラヤ湖)のほとりでイエス様はペトロに「私を愛しているか」とたずねます。これまでのペトロなら「もちろん愛しています」と答えるところだと思います。ところがペトロの答えは「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」という回りくどいものでした。イエス様からの問いかけは一回だけではありませんでした。三回も同じ質問を繰り返すのです。ペトロは悲しくなりました。
同じことを何度も言われると、イラっとしてしまうことはあるでしょう。親から「宿題はもうやったの?」と何度も言われて「うるさいな、今やろうと思っていたのに!」という場面がつい頭に思い浮かんできます。今日の場面を自分に置き換えてみるとどうでしょうか。誰かから「私のこと好き?」と繰り返し聞かれたら皆さんはどう思うでしょうか。別に好きとは思って
いない人から何度も聞かれると、イライラして「なんでそんなことを何度も聞くの」と言ってしまうかもしれません。でも好きな人から「私のこと好き?」と聞かれたら、3 回くらいなら「あなたのことは好きだよ」と答えると思います。
ペトロがイエス様にした回りくどい答え、何度も尋ねられて悲しくなったのは理由がありました。イエス様が捕らえ、取り調べを受けているときにペトロは大祭司の屋敷の庭に潜り込んでいました。その庭で「お前はあの男の弟子ではないのか」と言われ、ペトロは三度にわたって「知らない」とイエス様を裏切ったからです。しかも最後の晩餐の席で、ペトロはイエス様か
ら「私のことを三度知らないと言うだろう」と言われていたのです。イエス様を裏切ってしまったという後ろめたさから、ペトロはイエス様の問いかけに「はい、愛しています」といういつものような答え方ができませんでした。イエス様のことを愛してはいるけれど、直接的な答えをすることができなかったのです。しかも同じことをイエス様は自分が「知らない」といった回数も問いかけてくるのです。「お前は私が言った通りに「私のことを知らない」と言ったな。もうお前は私の弟子ではない」と切り捨てられてしまうのが恐ろしかったのです。「私はあなたのことを知らないと三度も言ってしまいました。もうあなたの弟子である資格はありません」と自分から言い出せないペトロは、イエス様から切り捨てられるのではないかとビクビクしていたに違いありません。
ではイエス様はどうしてペトロに問いかけたのでしょうか。今度は問いかける側の気持ちを考えてみましょう。自分の子どもに「ねえ、お父さんのこと好き?」と尋ねるとき、「うん、好きだよ」と言われて安心したい、という気持ちがあるように思います。自分は相手のことが好きだから相手の気持ちを確かめたい、というところでしょうか。
イエス様もペトロから「はい、愛しています」と言われて安心したかったのでしょうか。そうではないと思います。イエス様はペトロがご自分のことを愛していることを知っていました。ペトロが答えたとおりに「あなたを愛していることは、あなたがご存じです」なのです。イエス様はペトロに、ペトロ自身の口で「イエス様を愛しています」という言葉を言わせることによってペトロを赦し、ペトロがしっかりとまたイエス様に向かい合えるようにするために問いかけられたのです。ペトロは「イエスを知らない」と否定する度にイエス様を裏切った後ろめたさが募っていきました。その数は三度。イエス様はその回数分ペトロに「私は主を愛しています」と答えさせることによってペトロのすべてを赦したのです。
イエス様はペトロを赦すと同時に「私の羊を飼いなさい」と道を示しました。イエス様は漁師だったペトロに「人をとる漁師にしよう」と言って弟子にしました。復活されたイエス様は、ペトロに初めて会って弟子にしたときから、イエス様を否定して離れていきそうなペトロを再び引き戻し、復活を伝えるための道を備えてくださっているのです。
今日の福音書の最初の部分、たくさんの魚を採って岸に戻ってきた弟子たちを迎えたイエス様は、すでに炭火をおこして魚を焼いておりパンも用意していました。戻ってきた弟子たちを使って食事の準備をするのではなく、イエス様自身が食事の準備をしてくださっていました。第一の日課は、のちにパウロとなるサウロがダマスコに向かう道で、イエス様が呼びかける場面でした。イエス様はこれまでご自分を信じる者たちを迫害してきたサウロに対して、新しい道を備えてくださいました。
ダマスコに向かうサウロ、岸に戻ってきた弟子たち、そしてペトロ。イエス様はそれぞれ道を備え、示してくださいました。これらすべての記事を見て気がつくのは、イエス様からサウロに、弟子たちに、ペトロに語りかけていることです。こちらからイエス様に求めてくるのを待っているのではありません。イエス様はご自分から私たちに語りかけ、道を示してくださるのです。イエス様が語りかけてくる言葉に、今日も耳を澄ませていきたいと思います。