終わりと始まり
エレミヤ書 33: 14 – 16
ルカによる福音書 21: 25 – 36
教会暦の一年の始まりの今日、選ばれた讃美歌はアドベントの曲の中では有名な歌です。曲名は『来たりませ、御子よ』です。実はこの曲、一般には違う曲名で知られています。日本基督教団の讃美歌では『久しく待ちにし』という曲名で呼ばれているのです。この曲はクリスマスの讃美歌ではなく、あくまでもアドベントの讃美歌です。ですから他のクリスマスキャロルのような軽快さやキラキラした印象はなく、暗く寂しく淡々とした曲となります。それはこの曲の歌詞が旧約聖書の預言者イザヤの言葉を元に作られたものだからです。
イザヤはユダヤ人が最も苦しんだ時代の預言者のひとりでした。イエス様よりも前の時代もユダヤ・イスラエルは決して強く大きい国ではありませんでした。周りの大きな国々のパワーバランスの中でいつも不安晒された国だったのです。そのような国ユダヤはイザヤの時代に巨大国バビロニアによって征服されてしまいました。心のよりどころであるエルサレムの神殿は破壊され、ユダヤ人たちは故郷から遠くはるばるバビロニアの国に奴隷として根こそぎ連れていかれました。バビロン捕囚と呼ばれる事件です。
英語の歌詞からは、奴隷として囚われたイスラエルの民の祈る思いが良く伝わってきます。
“O come, O come, Emmanuel, Redeem thy captive Israel,…”
『来てください、来てください、救い主よ。囚われたイスラエルの民を解放してください。エッサイの枝(=ダビデ王の末裔)よ、恐ろしい墓の洞窟から、地下の地獄から救ってください。』
今日の第一の日課であるエレミヤ書を書いた預言者エレミヤもイザヤと同じくバビロン捕囚の時代の預言者です。この時代に神礼拝の中心であった神殿を失ったユダヤ人たちの信仰の中心が神殿での礼拝から律法の順守に変わり始めました。そしてメシア=”油を注がれた者”という言葉がいつの日か世の終わりに現れ全ての問題を解決する終末的救世主という意味を持つようにとなったともいわれます。
『見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。』
今日のエレミヤの言葉は、捕囚に疲れたイスラエルの民に向けられています。暴力と恐怖による厳しい支配の下にユダヤ人たちはいました。そのような彼らが求めていたのは公正と正義をもって国を治める王です。そんな王が来ることを神様はエレミヤを通して約束しました。この民に平安をもたらす王の名は『主はわれらの救い』といいます。『主は救い』という名前はユダヤの言葉では『ヨシュア』、福音書が書かれている言葉であるギリシャ語では『イエス』といいます。
この約束の言葉は現代の神の民であるわたしたちキリスト者も向けられたものでもあります。広く世界に目を向ければ、理不尽な支配が様々な国や地域で今でも続いていることを私たちは容易に知ることができます。最近注目されているアフガニスタンやミャンマーなど、この近代社会においても理不尽な力の下で苦しんでいる人々がいることを私たちは覚えなければなりません。また、視点を小さく、私たち自身の身の回り近くにおいてみても、貧しい人、弱い人、見捨てられた人など公正や正義が行き届いていない人々に出会うことが多くあるでしょう。だからこそ、預言者を通して語られる神のことばが必要なのです。正義の王、イエス=キリストが必要なのはバビロニアにいるユダヤ人だけではなく、現代の私たちも同じなのです。
今日の福音書の日課も救い主の来臨を予告する言葉です。これはイエス様ご自身による言葉です。この言葉によると、世の終わりに救い主が来る時、天体には異常な現象が現れ、海は激しく荒れ、世の終わりの現象に人々は不安におびえることなります。そして終末の恐ろしさに人々はおびえながらも、救い主が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを待つというのです。イエス様は言います。『頭を上げなさい。解放のときは近い。終末を待ちなさい。いつも目を覚まして祈りなさい。』
目を覚ますこと、祈ること、これが救い主を待ち迎えるときに求められる姿勢です。目を覚ましていないというのは自分のことばかりを気にかけ、福音を伝える気持ちが欠けていることを言います。反対に目を覚ましているというのは自分以外へ目を向けているということです。飢えや不正・戦争によって苦しむ人へ、貧しい人・弱い人・見捨てられた人へ目を向けましょう。心を開き、共感しましょう。そして祈るのです。あなた自身・私自身が誰のために何ができるのかを自分に問いながら、神様に心を向け、救い主との出会いを望むのです。
今日の福音書の箇所は、救い主キリストの降誕の預言ではなく、世の終わりに起きるという救い主の再臨=天に上ったキリストがもう一度やってくることを伝えるイエス様自身による予告です。正確には異なる事柄です。クリスマスから感じるイメージは『新しいはじまり』や『暖かさ』、再臨のイメージは『終末・世界の終わり』や『裁きによる緊張感』、まるで反対のことのように感じられます。しかし、これらの異なる二つの事柄を一つのこととして理解することができるのです。救い主の降誕というのは『世界の終わり・終末』の始まりです。終末の緊張感を持って襟を正して目を覚ましてクリスマスを待ちましょう。また、再臨による『終末と裁き』については不安や恐れを感じてしまいがちです。でも終末は公正と正義の王様による新しい世界の始まり、クリスマスに生まれた救い主による救いの完成と思えば、喜んで待たずにいられないでしょう。なぜなら神様は私たちが安心して終末を迎えることができるようになるためにイエス様をこの世に送ってくださったのですから。
今日のような終末のことを伝える聖書の箇所は、実は10月から11月にかけて読まれることが多いのです。それは教会の暦の中で聖霊降臨後は最後の方に終末をテーマとすることがメインの流れとなっているからです。そして今日はアドベント・待降節の始めの日です。今日のテーマも終末についてでした。このように聖書の箇所が選ばれているのをみると、教会暦はアドベントから始まり聖霊降臨後に終わる一本の棒のようなものではなく、終末を伝える聖霊降臨後がそのままアドベントにつながる輪・リングのようだと感じられます。それは春夏秋冬がまた春につながっているように、教会の暦も待降節・クリスマス・四旬節・イースター・聖霊降臨後からまた待降節へとつながっているのです。そしてこの終わりと始まりのつながりが終末の再臨と降誕についての理解を補い合っている、それが今週のテーマとなっています。
多くの牧師先生方のアドベントの説教を伺うと、『クリスマスの雰囲気に流され浮かれた気持ちで過ごしてはいけません、まじめに身を清めてクリスマスを待ちましょう。』 といったメッセージが多いのではないでしょうか。これは半分正しいと思います。緊張感の無い過ごし方をしてクリスマスを迎えてしまっては、クリスマスの意義が半減してしまうからです。でもクリスマスの持つ雰囲気から出てくる『やさしさ』『平和』『あたたかい心』はぜひとも大切にしたいと思います。これらは全て私たちの救い主・イエス様の生き方からにじみ出てくるものだからです。まじめに楽しくクリスマスまでの期間をどうぞお過ごしください。