2021年9月26日 説教 デヴィッド・ネルソン神学生

火で塩味を付ける

マルコによる福音書 9: 38 – 50

説教の動画をYouTubeで視聴できます。

こんにちは。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、ネルソンと申します。三鷹にある日本ルーテル神学校の2年生です。父はルーテル教会の牧師でした。1952年に日本に宣教師として仕事を始め、私も日本で生まれ育ちました。洗礼は浜松ルーテル教会、堅信礼は札幌北ルーテル教会。社会人になってからは本郷ルーテル教会のメンバーで、妻とも30年くらい前に本郷教会で出会いました。今までは子育てと会社の仕事に没頭する形で生きて来ましたが60才少し前に長年働いていた事務所を退職する事になり、これからどうするか考えている時に本郷教会の安井先生に本郷教会学生センターの英語テラスで英語と聖書のクラスの講師として手伝えないかと頼まれました。1人の先生が急に健康上の理由で倒れて、代わりを手配する時間も無く、ピンチヒッターとして仕事を始めました。私の親も日本での最後の10年余り本郷教会の学生センターの仕事をしていましたので、私としてはもう天国に居る両親ですが、何かと深い縁を感じ、少し溜まっているエネルギーや気持ちをフル回転に注いで本郷教会の学生センターがその危機を乗り越えられるように、微力ながら勤めてきました。本郷教会の牧師先生と手を組んで信徒伝道師として貴重な体験をして来ました。以前から神学校には興味はあったが、学生センターでの働きの流れで神学校を真剣に考え始めました。そして、神学校に行くなら、自分の繋がりが一番深い日本福音ルーテル教会の神学校で学びたいと思いました。ただ、国籍はアメリカ、母国語は英語、日本は長いもの、やっぱりDNAは西洋人なので、非現実な事を暴走して夢見ているだけなのか戸惑いました。自分が良くても、周りの人に迷惑ばっかり掛ける事になるならいけないので、少し慎重に考えて、色々な人と相談しました。しかし、本郷教会の安井先生や後藤由起先生、そして神学校校長の立山先生は自分がそう言う気持ちならそれを信じて結果は神様に委ねても良いと勧めて下さいました。今は神学校2年生、大岡山教会での実習は4月から開始しました。松岡先生はじめ、役員会の方、そして信徒の皆様に私を暖かく歓迎してくださって大変感謝しています。

今日の福音書のみことばは厳しい警告でもあり、励ましの言葉でもあります。一方では裁きの炎のイメージが描かれています。罪や悪に対して立ち向かうことが如何に大事か、大胆な表現を使っています。本当に腕を切るなどを勧めているのではなく、誘惑や試練に負けない為の真剣な態度を表しています。罪や悪は現実なものであると強調しています。人間社会は冷たく、時には残酷です。神の国の支配からは程遠いものです。私たち自身の心の内にも、罪や悪が根深く存在します。私たち現代人は裁きの話は好まないです。しかし聖書にしっかりと書かれています。これはスピリチュアルの領域の話で、人間の理解を超えるものなので、例えのイメージを通してアプローチするしかありません。法的な審判で裁かれるのがその真理を表す一つのイメージです。別な表し方、放蕩息子の例を見ると、私たちは誤った道で自分を見失った反抗期の青年みたいです。反抗的な態度により私たちの創り主、父なる神様との良好の関係が破壊され、その関係の修復や和解が必要だと言う説明です。もう一つのイメージは奴隷に対しての抑圧的な支配です。悪の力に支配されて正しい生き方が無理だと言うことです。必要なのはその支配からの解放です。さらに、罪とは私たちの心の中にある病気だと言う例えもあります。その病気を治す、心を綺麗にする癒しが必要です。何れにせよ、私たちは救いが必要で、自分が自分を救う事はできません。ルーテル教会の一つの伝統は常に律法と福音をセットで向き合う事です。律法と向き合う事は罪の現実を忘れようとしないで、その現実をしっかりと受け止める事です。いくら自分で努力しても、自分で生まれ変り救われる事は不可能です。

律法の厳しい現実に対して福音は神様の救いの知らせです。これは私たちの知恵や努力によるものではなく、イエス様の十字架のみ業によるものです。私たちは受け入れて「ありがとう」としか言えません。しかも、イエス様を信頼して救いを受け入れる信仰も神様の導きによるものです。

今日の福音書のみことばの最後の2節に注目したいです。「人は皆、火で塩味を付けられる。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして互いに平和に過ごしなさい。」

山上の説教の言葉を思い浮かびます。「あなた方は地の塩である。でも塩の塩気がなくなればその塩は何によって塩味が付けられよう。」(マタイ5: 13) 塩は現在でも身近な食べ物の材料ですが、聖書の時代には今以上に貴重なものだったでしょう。電気や冷蔵庫もなく、食べ物に入っている菌の消毒や保存食の為に欠かせないものでした。肥料として使う塩もあったそうです。食べ物に使う塩でも多くの場合混合物なので、時間の経過などで味が落ちる事もあったと推測されます。 私たちが地に塩である事、塩味に満ちている事は神のみ国作りに参加する光栄な事であり、喜びです。

しかし「火で塩味を付けられる」とはどう言う事でしょうか。これもまた、戒めと同時に励ましの言葉が読み取れます。

私たちは救われたものでもあり、罪人でもあります。神の子となる資格を与えられ、許されたものと同時にいまだに誘惑や試練や苦しみの中で生きる必要があります。信仰を持って生きる事は世の中の試練から解放されたと言う意味ではないです。自分の十字架を背負ってイエス様の導きに従うのが信仰者の旅です。私たちは繰り返し失敗し、繰り返しイエス様の救いを通しての赦しを神様から受け取ります。

塩味を失う事はどう言う事でしょうか。それは信仰の道に背く事ではないでしょうか。福音のみことばを聞こうとしない、信仰の道を拒否する事。信仰を養うものより信仰を揺らがせる事に心を向ける事ではないでしょうか。

火や炎で塩味が付けられる事は、私たちは試練や苦しみに試させられる事を示します。これは生きる中では厳しい現実ではあるが、私たちの信仰は希望の信仰です。使徒パウロが言われました。苦しみの中でも神様の恵は私たちに十分であり、その力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのです。ヤコブ書の冒頭のように試練を喜びと思う事は難しいかもしれませんが、イエス様が私たちと一緒にいて下さる事、1人ではない事を約束しています。聖霊の力を通して試練や苦しみも益になりえます。イエス様は言われた、医者を必要とするのは丈夫な人ではなく、病人だと。聖霊の導きを通して私たちは試練や自分の弱さに直面する時こそ、神様に頼る信仰が与えられる場合があります。全てが思うようにいっている時は逆に傲慢になりがちです。

日本でのクリスチャン人口は約1%と昔から言われています。少数である事は時には試練でもあるかと思います。日本福音ルーテル教会も一般社会から見れば、小さい、決して強くない集団です。しかし、であったとしても塩気のある教会として日本で福音を述べ伝え、み国の実現のために励む事の出来る存在だと思います。神様の救いの計画は馬小屋で生まれた弱いイエス、十字架の上の弱いイエスを通してもたらしたのです。私たち1人1人にもみことばが語りかけています、神様の助けにより、試練や苦しみに負けず、塩気のある地の塩として仕えることを。私たちがお互い助け合いながら、聖霊の導きによって、塩気のある働き人として神様に守られるように祈り申し上げたいと思います。