パン屑を集めて
ヨハネによる福音書 6: 1 – 15
個人的にオリンピックの話題を説教でお話しするつもりはなかったのですが、開会の9 日前に発表された開会式・閉会式の制作メンバーの一人が、過去にいじめ、特に障がいのある人へのいじめを武勇伝のように語った記事が雑誌に掲載されていたことから、その役割を辞任するというニュースがありました。大会エンブレムの盗作問題で多くの勉強をしたはずなのに、相変わらず事前の調査をきちんとしないという組織委員会に大きな責任があると思います。辞任をした彼がこれほど大きな非難を受けることになったのはいくつもの理由があると思いますが、30 年以上前の行為がいまだに非難されるのは、いじめに対する彼の時間がずっと止まったままになっていたからだと私は思います。
過去に大きな失敗をした人は、その失敗を挽回するための行動をします。その行動が人々に受け入れられると、その人の評価は変わります。聖書の中でもそのような人がたくさんいます。第二の日課、エフェソの信徒への手紙の著者であるパウロはその第一人者といっても良いでしょう。パウロはサウロといわれていたときは教会の厳しい迫害者でした。ところがダマスコに向かう道でイエス様と出会い、その後はキリスト教最大の伝道者として生涯を過ごしました。まさにその評価が180 度変わった人物です。しかし、過去の失敗から何の行動も起こさずに、そこからの時間が止まったままの人の評価はいつまでも変わることはありません。ネット上にだけ出された謝罪文は挽回する行動にはなりませんでした。
今日の福音書は5 千人の給食と呼ばれるイエス様の奇跡物語の中でももっとも有名な箇所です。5 つのパンと2 匹の魚によって男だけで5 千人という人々を満たしたという、4 つの福音書すべてで取り上げられている記事であり、先ほど読まれた旧約聖書でも預言者エリシャによって20 個のパンで100 人を満たすという同じような奇跡が書かれています。
目の前の大勢の群衆を前にして、イエス様は弟子のフィリポに質問します。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。人に質問するときというのは2 つのパターンがあります。一つは自分でもその答えがわからないのでその人に聞いてみる、もう一つは自分では答えがわかっているのに相手がその答えを知っているかを確認するために聞く場合です。ここでイエス様は「フィリポを試すために言った」と書かれています。イエス様は答えを知っているけれどもフィリポがその意味を理解しているかを試すために聞きました。フィリポは一生懸命考えて答えます。「めいめいが少しずつ食べるためにも、200 デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。1 デナリオンは当時の労働者が1 日働いたときの賃金といわれてみます。東京の最低賃金がほぼ時給千円ですが、8 時間働いたとして8 千円。とすると200 デナリオンは160 万円くらいと考えられます。集まった群衆が男だけで5 千人といいますから、女性、子どもを入れればざっと1 万人、計算すれば一人あたり160 円です。菓子パンひとつがこれくらいの値段ですから、全員が食べれば物足りないくらいでしょう。群衆を見渡して大体の人数を考えて計算をして答えを出しました。弟子のもう一人アンデレも「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」とイエス様に伝えます。弟子たちの答えは実に現実的です。これだけの人数に与えるパンを買うにはいくらくらいの費用がかかって、とても自分たちの手持ちのお金では買えない。少年は自分のパンと魚をくれても良いと言ったが、この量ではとてもとても足りない。私たち
が普通に考えれば当たり前と思いますが、イエス様にとってはフィリポの答えもアンデレの答えも正解ではありませんでした。弟子たちはイエス様がまだまだ理解できていないのです。
イエス様は弟子たちに「正解」とも「間違い」とも言いません。しかしイエス様みずから正解を示してくれます。イエス様はパンを取り感謝の祈りを唱えます。この姿は私たちに最後の晩餐を思い出させてくれます。パンは神様が与えてくださったものです。イエス様は神様の恵みに対して感謝の祈りを唱え、そのパンを人々に分けるのです。ちょうどイエス様が神様と人々との間に立って、神様の恵みを人々に与えてくださったのです。弟子たちと同じように、ここに集まった群衆もイエス様のことを理解していませんでした。イエス様から分けられたパンで満腹となった人々は、このしるしを見て「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言いました。彼らがイメージした預言者とは、エジプト人の迫害からユダヤの民を救い出し、カナンの地へと導いたモーセのことです。人々はイエス様のことをこの時ユダヤを支配し自分たちを苦しめているローマから解放してくれる救い主であると考えました。イエス様は、弟子たちそして人々がご自分のことを理解できていないということをご存知でした。それでも神様との間に立って、その愛を注いでくださったのです。
人々が満腹になった後、イエス様は弟子たちに残ったパンの屑を集めるように言われました。弟子たちが集めたパン屑は12 の籠いっぱいになりました。12 という数はユダヤの12 部族を表しているとも12 という完全数を表しているとも言われています。しかし私はこの12 の籠はイエス様の12 人の弟子たちのために用意された籠なのではないかという気がします。イエス様が人々に分け与えた神様の恵み、そこからこぼれ落ちてしまったものを弟子たちに集めさせ、今度は弟子たち自身が神様に感謝して新たに人々に分け与えるように用意されたのではないかと思います。
弟子たち、人々がどれだけしるしを見てもご自分を理解できずにいたけれど、イエス様は決して彼らを見捨てることはせず、ご自分を理解させるための「正解」を示し続けてくださいました。イエス様はどこまでも神様と私たちとの間に立ち、私たちのすべての罪を背負って十字架に架かられました。復活されたイエス様と出会い、聖霊を受けることによって、弟子たちはやっとイエス様の問いに対する「正解」がわかります。そしてそれまでの行動を挽回するように12の籠の一つひとつを持って神様の恵みを感謝し、その恵みを人々に伝えていくという行動になったのです。聖霊を受けたことによって弟子たちの行動は変わりました。十字架の直前には全員がイエス様を見捨ててしまった弟子たちは、神様と人々との間に立って神様の恵みを分け与えることができるようになったのです。福音書の中の弟子たちはイエス様のことを理解できないダメダメな存在でしたが、復活後の弟子たちはイエス様を伝える第一線で活躍しました。弟子たちもまた、パウロと同じようにその行動によって評価が180度変わったのです。
私たちも神様のこと、イエス様のことが理解できているわけではありません。日々間違いを起こしてしまいます。そんな私たちをイエス様は見捨てることなくいつも「正解」を指し示してくださいます。イエス様が神様と私たちとの間に立って執り成してくださることによって、私たち自身もこれまでの間違いを挽回して行動が変えられてゆくのです。