飼い主のいない羊
マルコによる福音書 6: 30 – 34, 53 – 56
人々はイエス様の奇跡に驚きました。民衆はその奇跡見たさにイエス様のあとをついてきたと言っても過言ではないでしょう。古い話になりますが、オウム真理教が勢いを増していたとき、多くの高学歴の学生たちが、教祖松本智津夫の空中浮遊などのまやかしの奇跡に惹かれたと言います。知的水準の高い人々であったからこそかえって、自分の考えの及ばない奇跡に惹かれたのかもしれません。奇跡を信じない人がいる一方で、そこに惹かれる人も確かにいるのです。聖書の時代の人々も、イエス様の奇跡の目に見える不思議さに惹かれていたのだと思います。しかしイエス様の奇跡にはメッセージがありました。奇跡が「しるし」と言われるように、しるしは、しるしそのものが目的は出なく、その奥にあるものを伝えるために起こるのです。そのメッセージは何か。神様は人を愛し憐れまれるという事です。だからこそ聖書は、特に福音書はいろいろな視点や伝承、資料が異なりながらも、奇跡を伝えているのです。今日の福音書の日課は、「五千人の給食」あるいは「二匹の魚と五つのパン」と呼ばれる奇跡とイエス様が湖の上を歩いて嵐を鎮められるという奇跡を挟んでいます。「五千人の給食」は来週の日課になっています。その意味で今日の福音書の日課は、奇跡そのものよりも、それを見ている民衆に焦点を合わせています。
イエス様は弟子達を二人ひと組にして伝道へと送り出されました。その働きを終えて帰って来た弟子達が、自分たちが行ったことや教えた事をイエス様に残らず報告します。知識や経験の少なかった弟子達です。ある者は喜んで、ある者は自慢げに報告したと思います。するとイエス様は、彼らの働きに満足し、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われます。イエス様のもとに帰ってからも、人が多くて食事をする暇もなかったからです。彼らは舟に乗って、人気のない他の岸辺に移動します。その時、移動したのが弟子達だけだったのか、イエス様も一緒だったのかははっきりしません。マタイ福音書では群衆はイエス様を追ってきていますし、「弟子達だけで」人里離れた所に移動したと言っているマルコ福音書も、34節以下ではすぐにイエス様と弟子達が一緒にいることになっているからです。いずれにしても弟子達は休むことはできませんでした。休むどころか、弟子達は五千人以上の人々のお世話をすることになるのです。
さて、イエス様と弟子達を求めていた人々は、先回りして待ち受けていました。聖書に出てくる地名、ベトサイダもゲネサレトも、ガリラヤ湖の湖畔ですから、陸路で追ってくることもできたのです。しかし民衆の熱心さ、勢いを感じられたイエス様は、「大勢の群衆を見て、飼い主のない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」のです。ここで言われている「憐れむ」という言葉は「はらわたがねじれるような状態」を意味していると言われます。日本語で言うならば「断腸の思い」と言っていいと思います。それだけ強い言葉であり、思いが込められています。この憐れみは神様やイエス様の場合にだけ使われているそうです。つまり、人間的な同情ではなく、神様が人に対して強くもたれる憐みの心なのです。
聖書の時代、そして中世の時代も、神様は恐ろしい存在でした。預言者たちはしばしば神様の裁きを伝えています。その上、律法学者やファリサイ派など宗教指導者たちは律法によって人々を支配していたのです。中世に生きた我らがマルチン・ルター先生もいかに神様の裁きを免れ、恵みにあずかることが出来るかと、当時の修道士たちの中でもとりわけ修練に努めたのです。しかし今日の福音書でも明らかになるように、神様は裁く神ではなく、人を憐れまれる神、恵みの神様なのです。ルターもそれを発見します。ルーテル教会のモットーの一つに「信仰のみ、恵みのみ、聖書のみ」という言葉があります。これは救いについて語っています。他の所に求めていた救いが、実は信仰によってのみ見出され、その救いは人間の側の努力や功績に対する報酬や報いではなく、神様の一方的な恵みによってのみ与えられるのです。そしてそれは聖書のみ言葉の中に記されているのです。
イエス様は人々を見て「飼う者のない羊」のようだと受け止められました。それは人々の中に、奇跡によって満足される一時的な好奇心や驚きの欲求では無く、表面的に慰められるものでも無く、神様から与えられる真の魂の安らぎによってのみ癒される、真の渇きを見て取られたのです。もちろん民衆にはその自覚がなかったかもしれません。しかし本人たちも気づかないところで、心の飢えと渇きがあるのです。イエス様はそこに目を止められました。
昨年来、私たちは、いや世界中が新型コロナウィルスの蔓延によって苦しみ、命を落とし、生活の危機に瀕しています。私たちの心は絶えず揺れ動き、平安を見つけられないでいます。教会もありとあらゆる行事や活動を休止せざるを得ません。それは行事がなくなるだけでなく、今まで「集う」ということ「交わる」ということに大きな意味を見出していた信仰的価値観に、問いを与える結果となっているのです。そんな右往左往している私たちは、神様から見たら「飼い主のない羊のような有様」であり、イエス様の憐れみをいただかなければならないものなのです。
そのような私たちの前にイエス様は良い羊飼いとして立っておられます。そして「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われているように、自ら十字架にかかり、私たちの罪を贖い、私たちをしっかりと父なる神様にとりなしてくださるのです。聖書はこの救いの出来事をみ言葉として語ります。そしてこのみ言葉によって私たちは満たされ養われるのです。五千人の給食もイエス様の十字架と復活も同じ唯一回の奇跡ですが、十字架の出来事は満腹になったおなかがすぐにへってしまうようなものではなく、み言葉を通して消えることのない命の糧として私たちに与えられるのです。
私たちの毎日には、喜びのこと、心配なこと、苦しみや悲しみのことがおこります。それは時には、たわいのないことかもしれません。しかし、私たちはその苦しみや悲しみにふさがれて、飼う者のない羊のようになっているのです。しかしそこには私たちを深く憐れまれるイエス様のまなざしがあります。このまなざしは自らを十字架にかけられるほどに私たちを愛されるまなざしです。私たちは、このイエス様のまなざしを信じて、愛と憐みの息吹を浴びながら日々起きる出来事を乗り切っていきたいと思います。