主に養われる喜び
使徒言行録 4: 5 – 12、ヨハネの手紙一 3: 16 – 24、ヨハネによる福音書 10: 11 – 18
昨年の五月くらいから第一礼拝の受付をお手伝いするようになりました。一年近くお手伝いをしていますが、なかなか子どもたちの名前を覚えられません。顔は何となくわかってきましたが、名前が結びつかないのです。年のせいなのかなとも思います。大岡山幼稚園では年長になると詩編23篇を暗記します。卒園生の私は今でもほとんどの節を覚えています。子どものころに覚えたものはいつまでも覚えているものですね。
イエス様の時代、ユダヤでは羊はごく身近な動物でした。詩編23篇やイエス様の降誕の目撃者としても羊飼いが登場します。夜の間羊たちは囲いの中にいて、朝になると羊飼いがやってきて囲いの門が開かれます。羊飼いは羊の名前を一頭ずつ呼び、すべての羊を牧草地へと連れていきます。羊も羊飼いの声を聞いてついていきます。羊を牧草地に放していると、狼などの獣が羊を狙ってきます。羊飼いは敵を追い払います。一匹だけならば追い払えるかもしれませんが、狼などは群れを作って襲い掛かってきますから、羊飼いも命がけだっただろうと思います。羊を守るためには命を捨てる覚悟がなければいけなかったのでしょう。
イエス様は自分を「良い羊飼い」と言われます。「わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている」と言われます。今お話ししたように、それぞれの羊の名前をきちんと知っていて、羊を呼ぶときは名前を呼んでいるのです。名前を呼んで話しかけると、そこには一対一という関係が生まれます。関係が深まるとそこには信頼が生まれます。イエス様と羊との間には信頼関係があるのです。ここで羊は人間です。囲いの中にいる羊はイエス様の弟子たちまたはユダヤ人かもしれません。しかしイエス様は言われます。「わたしにはこの囲いに入っていないほかの羊もいる」。囲いに入っていない羊はイエス様と同じ時代にはいない私たちすべてのことです。イエス様は私たちすべてを導くとおっしゃいます。
人はそれぞれに悩みを持っています。それぞれ違う悩みや苦しみを知っているイエス様は、一人一人の名前を呼び、私たちを慰め、励まし、私たちを満たしてくださるのです。何よりも、イエス様は私たちを罪という敵から救い出すために命を捨ててくださいました。そして永遠の良い羊飼いとして、復活して私たちのことをいつも見ていてくださっているのです。
そのようなイエス様に見つめられると、私たちも力を受けてイエス様を見上げます。第一の日課にその証人がいます。ペトロとヨハネは神殿で足の不自由だった人を癒し、イエス様の復活を宣べ伝えているところを捕らえられました。彼らは大祭司や大勢の人たちの真ん中に立たされ尋問されます。イエス様は十字架に架かる前に捕らえられ、最高法院で多くの人たちに囲まれて尋問を受けました。ペトロの場面はイエス様の場面そのままです。このときペトロは、イエス様とのかかわりを尋ねられると「私は関係ない」と逃げてしまいました。ところが今日の場面では、真っすぐに前を見て、十字架に架かりそして復活されたイエス様のことを証しするのです。
イエス様が十字架で死なれた後、ペトロたちはガリラヤに引きこもり、漁師に戻っていました。そこで復活したイエス様に再び出会います。一緒に食事をしているとき、イエス様は「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と尋ねます。自分から逃げてしまった人に話しかけるとき、私たちはきっと名前など呼ばずに「おまえは」という言い方をしてしまうでしょう。ペトロは、きっと後ろめたい気持ちでいたでしょう。しかしイエス様が何度も名前で呼ばれている中で、イエス様は今でもこんな自分のことを愛してくださっているということに気がついたのではないかと思います。
第二の日課にも力強い言葉が書かれています。言葉の順序は代えますが「わたしたちは、心に責められることがあろうとも神の御前で安心できます」とあります。私たちは後ろ暗いところがあると、それを隠しながら相手の人を避けてしまいます。神様は私たちがどれだけ隠そうとしてもすべてを知っておられます。そしてそんな私たちを見捨てることなく名前で呼んで話しかけてくださいます。神様の方から常に私たちを名前で呼びかけてくださるからこそ、私たちは神様に向いて罪を告白し、神様の前で喜びをもって生きていくことができるのです。