イエス様だけがおられた
マルコによる福音書 9: 2 – 9
今日の日曜日は主の変容主日です。四旬節前、つまり主の十字架の40日前の特別な日曜日です。この変容の主日は、東方教会では5世紀ごろから祝われていて、西方教会では1457年に教会のカレンダーに加えられたそうです。ただカトリック教会では9月14日を「十字架称賛日」と定めていて、その40日前を変容主日としています。
イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて、高い山に登られました。聖書では高い山は神顕現の場所であると考えています。彼らが見ている前で、イエス様の姿が変わり、服は真白に輝いたのです。その様子は、はるか昔、モーセがシナイ山で十戒を記した板をいただき、民のもとに下ってきたとき、モーセの顔が光を放っていたことを思い出させます。つまりこの表現は、神顕現を表しているといってよいと思います。
イエス様はなぜ三人の弟子だけに、この出来事を見せられたのでしょうか。今日の日課のすぐ前で、イエス様は「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」と不思議なことを言われました。まずそこを紐解いてみましょう。イエス様はすでに8章31節、9章30節で受難予告をされています。ですから当然イエス様の頭の中には十字架の死がありました。そしてそれは神様の救いを実現するには避けられないことでした。しかし、9章33節にあるように、弟子たちはそのことを理解していません。このままでは、イエス様の十字架の死は弟子たちにとってつまずきでしかありませんでした。そこでイエス様は、まさに神の力、神の栄光が、十字架のイエス様に現れることを弟子たちに前もって示されたのです。そしてさらに言えば、イエス様の復活の姿を表わされたとも言えるかもしれません。
さて、イエス様は、栄光の輝きの中に現れたモーセとエリヤと語りあっておられます。モーセは律法をイスラエルの民に伝えた人です。エリヤは預言者を代表する人物です。律法は人に歩むべき道を教え、預言は道をそれた人に戻るように諭す言葉です。その中心にイエス様がおられるということは意義深いことです。
すると、ペトロは口をはさんで「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのためです」と言い出しました。仮小屋というのは天幕のことですが、そこは神様がおられる場所です。日本でも山岳信仰があります。高い山の山頂には祠がありますが、その発想と似ているのかもしれません。ペテロがとっさに口走ったのは、偉大な光景とそこにいる預言者をとどめておきたいという心理でしょう。さらにその栄光に自分もあやかりたいという気持ちの表れだと思います。しかしペトロのそのような思いを無視するかのように、そこに雲が現れ、雲の中から「これはわたしの愛する子、これに聞け」という声が聞こえてきました。変容の出来事は神様の出来事です。そこでは人間的な思いははねのけられます。神様の言葉だけが響くのです。
雲が晴れると、「これに聞け」という天からの声の当事者であるイエス様の姿は、もはや光り輝く姿ではなくなりました。普段と同じ姿に戻られたのです。イエス様の栄光は目に見える光り輝く姿の中にはないからです。パウロはフィリピの信徒への手紙2章6節以下で「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」と述べています。この十字架の姿の中に神様の愛があり、イエス様の栄光があるのです。
歴史ある巨大な宗教施設である神社仏閣には、それなりの荘厳な雰囲気が漂います。そこには金箔がはられ、朱が塗られ、彫刻が施されています。教会も同様です。カトリック教会が多いと思いますが、伝統的な建築である教会の建物は、それ自体が教育的、伝道的な意味を持ちますので、宗教的な精神を得るためにはそのような空間も必要だと思います。しかし荘厳さの中にキリストを感じることも大切ですが、十字架という徹底した貧しさ、低さ、弱さの中に神様の救いの真実があることを、私たちはしっかりと受け止めたいと思うのです。弟子たちが当時の巨大な建築物であった神殿に驚嘆した時、イエス様は「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」と言われました。私たちがしばしば持つ価値観も、美しさであり、大きさであり、強さです。信仰においてもついそのようなものを求めてしまいます。しかし私たちが得るべき信仰はそのようなものを求めません。ましてや美しいものは色あせ、形あるものも壊れるのです。しかし、イエス様の十字架の救いは永遠に色あせることもなく、壊れることもなく、失われることのない真実なのです。この一見弱々しい、みすぼらし十字架の中にこそ信仰は救いを見るのです。
雲が晴れて姿を見せられたイエス様はいつもと同じ姿でした。しかし実はこの時からイエス様は普段の姿以上に貧しい姿、十字架の刑を受ける罪人の道を歩まれ始められます。今日の日課の前後には、ご自身による受難予告が語られています。そして無理解な弟子たちの議論を戒められます。しかしそのような弟子たちであっても、イエス様は招かれるのです。十字架の歩みこそがイエス様の栄光への道であり、その御後に続いていくことが私たちの栄光です。
今週水曜日は「灰の水曜日」です。灰は悔い改めを表しています。キリストのご受難を覚える日々を始めるその最初の日に、私たちもまた自分自身の罪を悔い改め、イエス様の十字架に思いを至らせたいと思います。