回復へ導く権威
申命記 18: 15 – 20、マルコによる福音書 1: 21 – 28
緊急事態宣言が発せられてから3週間が経ちました。東京の日ごとの新型コロナウィルスの感染者数は減少傾向にあるようですが、まだまだ1日に千人くらいの感染者数が報告されています。予定ではあと一週間、2月7日までですが、延長しないといけないのではないかという人が多くいると聞きます。
私が今勤めているのは10人ちょっとの小さい事業所ですが、正月明け早々に同僚の一人が検査で陽性になったという連絡をもらいました。発症までの潜伏期間と言われる2週間が経過して、事業所内で新たに感染した人はおらず、ご本人も無症状のままで体内のウィルスが死滅したとの判断が出て、つい先日職場に復帰しました。感染した同僚は、同居するご家族からの家庭内感染で、濃厚接触者として自宅での待機を指示されてほとんど外出ができない、また陰性と診断された小学生のお子さんを実家に預かってもらうなど、大変な毎日だったそうです。家族だけしか会えない状態、症状が悪化したらどうしようという不安で、非常にストレスを感じたと聞きました。これまで幸い身近な人の感染を経験してこなかった私は、改めてこの病気の怖さを感じました。
今日の福音書は、イエス様がガリラヤ湖畔の村、カファルナウムで伝道を始められたときのことです。安息日に会堂に集まり、聖書が読まれ、説教を聞き、祈りが唱えられる。これは当時のユダヤの人々にとって日常の風景でした。キリスト教もユダヤ教を源流としていますから、私たちの礼拝と同じような流れです。当時の会堂では「会堂長」という人はいましたが、教会の牧師のように毎週その人が聖書を読んで説教をするというのではなく、誰でも、時には指名されて説教こともありました。イエス様も会堂で聖書を読んで説教をする姿が福音書の中でいくつも見られます。集会では、旧約聖書のモーセ五書と呼ばれる律法と預言書が朗読され、読まれた聖書をもとに律法学者などが説教を行いました。説教は、律法や預言書の解き明かしであったと思います。
イエス様が聖書を読み、説教をしていると、その場にいた人々はイエス様に対して非常に驚きました。そしてもうひとつ、会堂にいた汚れた霊に取りつかれた男が叫びだすという事件が起こります。
私が今日の聖書の箇所を読んで不思議に思ったことがあります。それは「なぜ汚れた霊に取りつかれた人が会堂にいたのだろう」ということです。汚れた霊はわざわざ神様のことが話される会堂に行く必要はないはずだからです。それともイエス様に向かって叫んだように、会堂の中を混乱させようと考えたのでしょうか。何回か読み直してみましたが、そのようにも読めません。
この時代、回復するのが難しい病気にかかった人や障害のある人は汚れている、という理解がされていました。旧約聖書のレビ記には「どういうものは汚れている」という規定が細かく書かれています。ここで叫んだと書かれている人は精神障害・心の病気にかかっている人です。心の病気は外面からは見えません。そのために汚れた霊に取りつかれているという理解になったのでしょう。
そのように考えると、この人は自分の心の病気を何とか直したい、会堂で話を聞くと治るためのヒントが得られるのではないかと考えて、会堂に足を運んできたのではないかと思えるのです。「汚れたもの」と判断されると、他の人たちからは避けられ、場合によっては隔離された環境で暮らさなければならない。社会から切り離された存在から何とかして回復したいと思い、病気のことを隠しながら何度も何度も会堂を訪れていたのではないかと思います。
会堂で説教をするのは主に律法学者、中でもファリサイ派の人が多かったでしょう。ファリサイ派の人たちは、律法の掟を重視し、それを文字どおり忠実に守ろうという考え方です。聖書としてまとめられた律法だけではなく、口伝、伝統として語られてきた律法も大切にして、それらの掟を遵守することを最優先し、律法を文字どおりに生きようとしていました。彼らが会堂でする説教は、きっと読まれた聖書の律法に関連する口伝や伝統としての律法を織り交ぜて、このように律法を守って生きれば神様の前で正しい生き方になる、というものが多かったのではないかと思います。
これまで聞いてきた説教に対して何の反応もしてこなかった男は、イエス様の説教に対して叫びます。この人こそ自分の心の病気を治すことができる人かもしれないという期待だったのでしょうか。それとも、これまで聞いてきた説教よりもあまりにもお粗末だったからでしょうか。どちらにしても彼は何かを感じ取って叫んだのです。
彼が叫んだ相手がファリサイ派の説教者だったらどのように反応したでしょうか。ファリサイ派の人の考え方は、自分たちは律法を細かいところまで守っている、自分たちは正しい生き方をしている、というものでした。ファリサイという言葉は「分離した者」という意味で、律法を守らぬ人間と自分たちを分離するという意味合いがあると考えられています。叫んだ男は汚れた霊に取りつかれた者と考えられていましたから、その場で会堂から排除されてしまったかもしれません。
イエス様は違いました。まっすぐに彼と向き合い、「黙れ。この人から出て行け」と叱りました。汚れた霊は彼から出て行って彼は回復したのです。イエス様は、他の人たちから汚れた者として蔑まれていた人たちを排除することはありませんでした。重い皮膚病の人たち、取税人や罪びとと言われていた人たちに対して、自分から声をかけ、その人たちを社会からの疎外されている状態から回復していかれたのです。
ルカによる福音書に書かれている「善きサマリヤ人」のたとえを思い出します。盗賊に傷つけられ、道にうずくまっている旅人に対して、通りかかった祭司やレビ人は見て見ぬふりをして通り過ぎていきました。彼らは旅人を無視して切り捨てていったのです。しかしサマリヤ人は自分から旅人に近づいていき、彼を助けました。誰からも顧みられない旅人に対して、彼の隣人になったのです。
私たちはどうでしょうか。今は少しは改善しているようですが、コロナウィルスが広がり始めたときには感染者や感染者を治療する医療従事者を差別することが問題になりました。最初にお話しした同僚の家族の方も、人に感染することはないと判断されても、会社から「もう一週間出社は控えてほしい」と言われたそうです。ファリサイ派の人は、律法を守らない人は汚れているから相手にしないという立場をとりました。私たちも同じように、知らず知らずのうちに人を差別して多くの人を傷つけ疎外しているのではないでしょうか。けれども私たちは心の病気を持っている人にまっすぐに向き合われたイエス様を知っています。
イエス様の説教を聞いて、イエス様が行ったわざを見て、人々は「権威ある教え」だと驚きました。権威と聞くと、私たちは何か肩書を思い浮かべてしまいます。何々に書かれていたから、誰々が言ったから、と聞くとなぜかそれならば本当だと思ってしまいます。しかし、肩書など人が示そうとする権威は薄っぺらなものです。時には自分が正しいということを示すために、権力をあたかも権威のように用いたり、多くの人々に誤解を与えたりという罪をはらんでいます。
人々がイエス様から感じ取った権威とは、一体どのようなものだったのでしょうか。聖書にはイエス様が語った説教は何も書いていません。けれどもヒントは与えられています。今日の旧約聖書の日課である申命記18章18節にはこう書かれています。「わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。」イエス様の言葉、イエス様のわざはすべて神様から来ているのです。人が作り出したのではない、神様の権威をもってなされることに、人々は驚いたのです。その権威は自分を誇るものではなく、人々に救いを与えるという広い御心なのです。イエス様に対して叫び声をあげた男も、この権威を感じ取って叫びという反応を起こしたのではないでしょうか。
神様は私たち一人一人を常に見ていてくださいます。私たちには見えないかもしれませんが、私たちはイエス様のわざを通して神様の権威を感じることができます。イエス様が社会から疎外されている人にもまっすぐに向き合い、隣人になってくださったからこそ、私たちも隣人になっていけるのです。