始まりとしての洗礼
マルコによる福音書 1: 4 – 11
先日、小惑星探査機「はやぶさ2」が小惑星「リュウグウ」から石をもって帰ってきました。「リュウグウ」は地球から26億キロの距離にあり、大きさは半径900メートルぐらい、東京タワー三つ分ぐらいの小さい惑星だそうです。26億キロというのは想像できませんが、片道2年半かかったそうです。このように科学的な教育を受けている私たちにとって「天」というと、宇宙や星をイメージします。ですから、イエス様が復活された後、天に昇られた昇天の出来事は、イメージとしてはとてもつかみづらいものです。一方で、人が死んだとき、その人の霊が天に挙げられた、天国に迎えられたともいいます。その時には、何かわからないけど素直に受け止めます。このように私たちは、「天」いう時、無意識に使い分けをしているのです。聖書の時代はまだ地球が丸いという考えはありませんでした。地球は半円形の平面部分、天は半円の部分でその天は神様の世界と考えていました。今日の福音書の中に「天が裂けて霊が鳩のように降りてきた」という表現がありますが、それはまさに神様の世界から人間の世界に聖霊が降ったことを言っています。
さて、今日は主の洗礼日。イエス様が洗礼を受けられたことを覚える日です。私たちは先月、残念ながらイブ礼拝を守ることはできませんでしたが、イエス様のお誕生クリスマスをむかえました。今日はイエス様が伝道の生活を始められる、それに先立って洗礼を受けられたことを覚えるのです。マルコによる福音書はこの洗礼の出来事を大変簡潔に記しています。まず主の洗礼の記事を通して私たちにも与えられている洗礼の恵みを考えてみたいと思います。
すでに洗礼者ヨハネがヨルダン川のほとりで人々に洗礼を授けていました。彼は人々に神の国の到来と罪の悔い改めを告げひろめていました。そして救いを実現するお方が自分よりも後に来ることを告げていました。マタイやルカ福音書によると、イエス様は人々にまぎれてヨハネの前に立たれます。ヨハネはすぐにそれが誰であるか気づき「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と躊躇います。しかしイエス様は「今は止めないでほしい」と洗礼を受けられるのです。なぜでしょうか。洗礼はパウロがローマの信徒への手紙6章4節で「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死に与かるものとなりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。」と言っているように、罪に支配された古い自分に死に、神様の新しい命に生きることです。それは罪に支配された神なき人生から、神様のご支配に自らを委ねて生きることに他なりません。
イエス様は、罪なきお方ですから悔い改めの洗礼も罪の赦しの洗礼も必要とはされませんでした。それでもなおかつ「今は止めないでほしい」と言って洗礼を受けられたのは、私たちの罪を引き受けるために他なりませんでした。私たちが洗礼を受けて生まれ変わるために、まずその先駆けとして洗礼を受けられるのです。私たちが後に続き、キリストによって新しく生まれ変わるのです。実際に私たちが生まれ変わることが出来るのは、もう少し越し後のキリストが十字架にかかり復活の新しい命を得られてからのことです。洗礼は私たちをキリストの復活の命に入れるのです。それは私たちの理解を超えたことです。理解を超えたことであるからこそ、洗礼は「秘儀」と呼ばれます。合理的な理解はこの秘儀を受け入れません。合理的な考えに支配されている私たちもそれを受け入れることは容易ではありません。それを受け入れることが出来るのは信仰だけです。ですから秘儀である洗礼は信仰を求め、信仰を必要とする出来事なのです。
イエス様が洗礼を受け川から上がられると、天が裂けて“霊”が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になりました。ご覧になったと記されていますから、イエス様がそれをご覧になったのです。他の人がそれを見ることができたかどうかは分かりません。しかし、イエス様を救い主と気づいたヨハネはそれを見たかもしれませんし、福音書に伝えられているところをみると、それは他の人々も目撃したかもしれません。マタイでは、もっとはっきりと「これに聞け」と言って、その時響いた声が周りの民衆に語られたこととして記しています。しかしマルコはその霊の様子がどうであったか、誰に向かって語られたかには関心を示していません。ここで重要なことは、洗礼には聖霊が降り、働くということです。体を水で洗うという外的な行為の上に、聖霊が降り働くことによって、それは内的な出来事、霊的な出来事となるのです。私たちの洗礼の式文も聖霊を求めることがあり、この聖霊によって人が新しく造り変えられ育てられることを祈り求めるのです。
主が洗礼を受けられた時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえてきます。イザヤ書42章1節は「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。」とあります。選ばれたものが、神様の選びによるものであり、その存在を神様が喜んでおられることが宣言されるのです。イエス様が神様に選ばれし者として、神様の御心にかなう者として、神様に喜ばれる者としてここに立っておられるのです。しかし、イザヤの預言は、その神によって選ばれた僕が「叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消す」ことがないというのです。神によろこばれる僕が、やさしく、一見弱弱しい姿で語られるのです。さらにこの僕は、53章によると「苦難のしもべ」として、「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を着る者の前に物を言わぬ羊のように彼は口を開かなかった」のです。神様に選ばれた者として、神様の御心にかなう者として、神様に喜ばれる者が、実はそのような姿をとられる、そのような人生を歩まれるというのです。
イエス様が十字架につけられたとき、その十字架には「ユダヤ人の王」という札が付けられ、頭にはローマの兵隊によっていばらの冠をかぶせられました。それは王というには余りにみすぼらしく、痛々しく、王の姿とはかけ離れたものでした。しかし、このギャップ、この落差、この逆説に神様の愛と救いの深さがあるのです。神様の栄光は、そのみすぼらしい姿に輝くのです。なぜならばその姿こそが世界のすべての人の罪を負い、すべての人に救いを与える栄光の姿だからです。いや、その苦難の姿こそがわたしの罪を負う姿であり、わたしを救う姿であるからです。神様の救いは、時に力強く私たちを立ち上がらせます。しかしその前に、とことん私たちの弱さや苦しみ、痛みを一緒に負ってくださり、傍らに立ち、あるいは後ろを支えながら可能な限り自分の力で立つことを援助するように、イエス様はそのような仕方で私たちの罪とそこから来る様々な迷いや不安、悲しみや苦しみを負ってくださるのです。
私は今の教会の姿を思います。私たちは世界のすべての人が味わっているように、新型コロナウィルの蔓延による不安と恐れ、様々な不自由さの中にあります。またそれらと闘っている患者さんや医療関係者、保健福祉従事者、エッセンシャルワーカーの人々の苦悩を覚えます。この苦しみは教会だから免れるものではありません。教会は社会の苦しみと無関係に立っているのではありません。むしろ私たち教会も世界の一員として、その苦しみを負うのです。まさに神様の世界が、キリストにより人の世界と一つのなられたように、そしてキリストが最も苦しむ人の痛みを共に負ってくださったように、教会も世界の痛みと連帯していきたいと思うのです。そこに神であるイエス様が人として洗礼を受けられた意味があるように思います。