神様の不思議の前で
ルカによる福音書 1: 26 – 38
私達の人生にはどんなことが待ち構えているか前もってはわかりません。前もって予想できるならばそれに対して心構えもできますから、大きな不安にはなりません。むしろ予想しなかったようなことが起こり、予想しなかったような結果をもたらすから大変なのです。地震や津波はこれまでの経験からある程度予想できそうですが、今年世界中を襲った新型コロナ感染症は、ごく一部の学者は想定していたかもしれませんが、世界中のほとんどの人は、2020年がこのような年になるとは予想しなかったのではないでしょうか。教会も、何よりも大切に考えてきたイースターやペンテコステを含めて「集う礼拝」を中止しなければならなくなど全く考えていませんでした。ついに今年だけでなく来年の少なくとも前半までは、今までとは違う新しい日常を送ることになると思います。しかしそれにあたふたしているだけではすみません。大切なことはその状況の変化や結果とどう向き合い、どう受け止めるかです。
今日の福音書の日課は、「受胎告知」と呼ばれている個所です。高齢であったエリザベトに妊娠が告げられてから六ヶ月後、天使ガブリエルはマリアに懐妊をつたえます。「おめでとう。恵まれた方、主があなたと共におられます。」天使がどんな姿でマリアの前に現れたかは不明ですが、一人の若い娘にすぎなかったマリアに突然起こった出来事です。マリアを襲ったのは恐れと不安でした。彼女は婚約していたとはいえ、15、 6歳の娘です。自分の身に何が起ころうとしているのか予想もつかなかったのです。すると、天使は言います。「マリア。恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアの恐れには理由がありました。彼女は婚約してはいたものの正式な結婚はまだでした。当時の結婚は父親が主導権を持って決めるものでしたから、その縁談話が進んでいたとしても、今のような自由な時代ではありませんでしたから、妊娠など考えも及ばなかったのです。宗教的にも問題です。婚約していたということは、その後の結婚は当然のこととして扱われていました。ですから、婚約していた者がいつの間にか妊娠していたと知れたら、律法の姦淫の罪を犯したとして石打ちの罰が待っていたのです。事実、マリアの妊娠を知ったヨセフは、マリアがそのような身になることを避けるためにひそかに離縁しようとしていました。マリアは正直にこのような苦悩を天使に打ち明けます。「どうして、そのようなことがあり得ましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」マリアの不安はそれだけではありません。天使が伝えた、その子どもが偉大な人になり、いと高き方の子と呼ばれるということも彼女にとっては驚きであったに違いないのです。ナザレという村はただでさえ辺境の地と呼ばれたガリラヤ地方の一寒村です。その村の貧しい娘から生まれた子どもが、そのような偉大な人となるということは、とてつもなく恐ろしいことに思えたのです。マリアに妊娠が伝えられるということは、このように何重にも苦悩と問題を引き起こすことだったのです。
しかし、それが神の働きであることが伝えられます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。」ここに大きな分岐点があります。天使の語る言葉を依然として恐れと疑いをもって聞くか。それとも神の業として信仰によって受け入れるか。この分岐は、不安と苦悩に続く道か、それとも平安と希望への道であるのかの大きな分かれ目です。人は自分で負いきれないようなことは否定しがちです。しかし信仰によって決断する者は、たとえ自分では負いきれないと分かっていても、そこに神様の意志と選びを感じ、すべてを委ねて決断するのです。
この選択のために、天使はさらに続けます。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六カ月になっている。神にはできないことは何一つない。」高齢の不妊の女が妊娠する。未婚の娘に子どもが与えられる。いずれも不可能を可能とされる神様の力を示す言葉にほかなりません。この言葉の前で、どうするか問われているのです。マリアは「わたしの主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えました。マリアは神様の意思を受け入れたのです。もはや不安と苦悩ではなく、平安と希望がマリアを待っているのです。もちろん全くの不安がなくなったわけではないでしょう。現実には予期せぬようなことがたくさん起こることは想像に難くありませんでした。しかし、自分に起こることは、神様の御心と信じた者にとってたとえ試練があったとしてもそこには同時に神様の助けが与えられることは間違いのないことです。マリアはそこに信頼したのです。
私達にも人生の岐路が存在します。自分では想像だにしなかったことが起こります。そして、その対応や選択においても悩みますが、その結果についても思い悩みます。選択の結果、うまくいけば言うことはありません。しかし予想以上の困難さが待ち受けていることもありますし、うまくいかずそこで挫折することもあるのです。そのような自分の身の上に起こることをどうとらえるかは、その後の歩みの取りつきに影響します。自分の選択や人生を失敗と捉えるか、それとも挫折を味わったとしても、そこになにがしかの神様の御心を見ていくか、その違いは自分の存在と人生の意義に大きく影響を与えます。悔やむことが先に来ることがあります。しかしパウロがコリントの信徒への手紙一10章13節以下で、「あなた方を襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実なお方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れの道をも備えてくださるのです」と言っているように、神様は、私たちに耐える力、乗り越える道を備えてくださるのです。
マリアは自分を「主のはしためです」としました。そして主の御心が自分の身の上に起こることを受け入れました。この決断によって、彼女の存在は大きく決定づけられたと言ってよいでしょう。それは古いカトリックのマリア崇拝ということではなく、神の御心を受け入れた信仰者の手本として、私達もその信仰に続きたいのです。私達は神様のみ業の器です。この器の中にどのような物が盛られるか、私たち自身では決めることができません。しかし神様はその器の大きさ、形、素材を熟知しておられますから、きっと良い盛り付けをして下さいます。私達もそれを信じて喜んで御心を受け入れたいと思います。クリスマスおめでとうございます。
アーメン。