小さい者の中にキリストを見る
マタイによる福音書 25: 31 – 46
教会の伝道の働きは大変難しいもので、どんなに頑張ってもなかなか成果が上がりません。特に地方の小さい教会では新しい人がおいでになるのは一年に数名です。ですから礼拝に続けてこられる方も大変少ないのです。若いころ小さな教会を牧会していたころ、どうしてこんなに頑張っているのに成果が表れないのだろうと思いましたし、働き人も少なく牧師夫妻でがむしゃらに働いていましたので、なんで自分たちだけが、とさえ思いました。もちろんそれは大きな誤解でしたが、そんな私の焦りを感じた先輩が、「できなかったことは覚えていなければならないけど、できたことは忘れなさい」とアドバイスをくださいました。できたことを覚えていると、それにしがみついてしまい、それを自分の功績のように感じてしまいます。また、自分だけが頑張っているように錯覚してしまいます。マタイによる福音書6章3節でイエス様は「施しをするときには、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。」といわれています。これは自慢するな、誇るなという流れで言われています。これは人に対して誇るなというだけでなく、自分自身にも言い聞かせる言葉だと思います。さらにルカによる福音書17章10節には「自分に命じられたことを皆果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』といいなさい。」と言われています。まさに私たちは神様に命じられたことを、「アーメン」と答えて、その成果、結果は神様にお預けするべきだと思います。
さて、今日の主日は教会の暦では一年の最後の日にあたります。福音書はここ数回にわたって終末と再臨について語っていまして、今日もそのことを一つのたとえで語っています。
人の子、つまりキリストが、終わりの日に王として裁きの座につき、羊飼いが羊と山羊とをわけるように、祝される人たちと罰を受ける人たちをえり分けられるのです。
キリストは祝福される人たちに言います。「祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」祝福される人たちは驚きます。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」祝福された人たちは身に覚えがないと言うのです。これに対して王は言われます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」祝福された人たちは、ここに言われるような行為を確かにしていました。しかし、彼らは相手が王様だからしたのではありませんでした。相手が誰であろうと関係なく、かわいそうに思って、つまり見返りを期待しないで、ただ愛から生まれた行為でしたことだったのです。王は、この見返りを期待しない自然な愛の行為を「この最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれた」と評価します。それはキリストご自身がそのような愛で私たちに仕えて下さったからです。神様は私たちに愛を与えられます。それは私たちの神様への愛があろうとなかろうと注がれる愛です。もちろん神様は私たちが神様を愛することを喜んでくださると思いますが、それがないから愛さないと言うような偏狭で貧しい愛ではないのです。王として来られるキリストは、終末の時は裁き主として来られますが、その前に仕える王として来られたのです。
イエス様が受難予告をされた後、弟子たちは自分たちの中で誰が一番偉いかと論じ合いました。そして、ヤコブとヨハネの母は、イエス様が王座にお着きになる時に、自分の子どもたちを、偉い地位につけさせて下さいと願い出ました。これは母だけの願いではなく、弟子たちがみんな抱いていた願いでした。つまり、極端なことを言えば、弟子として仕える見返りに、終末の時に偉い地位につけてほしいと願っていたのです。このような弟子たちの思いに対してイエス様は「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われています。
イエス様は最後の晩餐の時に弟子たちの足を洗われました。その時、ペトロは畏れ多いこととして辞退しました。しかしイエス様は「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われています。つまりイエス様の仕えるという行為、出来事、それこそが救いであり、それを受け入れることによって救いの関係が結ばれることなのです。足を洗うという行為は、十字架によって自分の命を私たちのために差し出すということにつながります。
イエス様は仕えるという姿勢、仕えるという生き方を私たちにも求めておられます。それは人の上に立つという私たちの常識、社会で生きるすべとあたかも逆行するする生き方です。しかし人の命の価値、人生の価値は、決して人の上に立つことによって高められるのではないのです。能力のある人、立派な功績を残した人、大きな働きをしている人、それはとても尊いことで、そのような人々を私たちは素直に立派だと思うし尊敬します。しかし私たちの心を揺さぶる人、感動を与える生き方、人生の意味、命の尊さを教える生き方は、それとは違うように思うのです。仕えることこそが、私たちの心に命を与えるのです。
私たちに与えられる救いは、力によるものではありません。キリストの徹底的に仕えるという十字架の愛によるものです。この救いを受け入れ、私たちもまたその愛の生き方、仕える生き方に倣いたいと思うのです。
それでは私たちは誰に仕えるのか。「最も小さい者」それはまずキリストご自身です。フィリピの信徒への手紙2章6節「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました」とあります。そのいと小さき者となられたキリストに仕えるのです。それではそのキリストはどこにおられるのか。それは私たちの周りにいる小さき者とされた人たちの中におられます。自分だけでは生きることのできない幼子、助けを必要としておられる障碍を持つ方々、高齢の方々、病弱な人たち、災害に遭った人々、貧困や差別の中にある社会的な弱者、そして一見健康そうな私たちもその小さい者の一人なのです。私たちは互いの中にキリストを見、その思いの中で使えあうことが求められるように思います。それが神様の国、天国の姿だからです。