考え直して
エゼキエル書 18: 1 – 4, 25 – 32
フィリピの信徒への手紙 2: 1 – 13
マタイによる福音書 21: 23 – 32
今日の福音書の日課は、二つのお話が書かれていますが、内容を読むと一つであることがわかります。イエス様は祭司長や民の長老たちと対峙されています。祭司長や長老たちは日ごろから、イエス様が民衆から人気があり、支持されていることを快く思っていませんでした。宗教的な事柄以外ならまだしも、律法についても自分たちとは異なる姿勢で説いておられたからです。自分たちが絶対だと思っている彼らにとって、これは許しがたいことだったのです。
そこで彼らはイエス様に対して「何の権威で律法を説いているのか」と詰め寄ったのです。彼ら自身が権威にこだわっていた様子がわかります。当時の宗教指導者は、権威を誇るように着飾り、威張り、人々を見下す態度で歩いていたのです。そんな彼らにイエス様はバプテスマのヨハネのことを持ち出されます。ご存じのように、バプテスマのヨハネは、イエス様よりも少し早く活動を始めた預言者です。ヨルダン川の近くにいて、らくだの毛衣を着、腰に川の帯を締め、イナゴと野蜜を食べて生活し、人々に洗礼を授けていました。イエス様もこのヨハネから洗礼を受けられました。彼は一般民衆からは受け入れられていましたが、そのあまりに質素で粗野な姿、そして当時の権力者や宗教指導者たちへの批判的な態度に、権力者たちからは受け入れられていませんでした。そしてついには、ヘロデ王に対する批判によって捕らえられ首をはねられてしまうのです。イエス様は彼らの問いにストレートに答えるのではなく、「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」と問われます。彼らは考えます。「天からのものだ」と答えようものなら、なぜヨハネを信じなかったと言われるだろう。もし「人からのものだ」と言えば、ヨハネを預言者と信じていた民衆から反感を買うだろう。そこで彼らは「わからない」と答えるのです。そこでイエス様もそれなら私も答えないと言われるのです。
今日の旧約聖書の日課では、預言者エゼキエルが民に対して厳しい言葉をかけています。当時の人々は「現在の自分たちの苦しみは先祖の犯した罪の結果だ」と考えていました。預言者エゼキエルは第一回バビロン捕囚の時にバビロンに連行され、捕囚民の中で活動していました。つまり当時の人々の苦しみというのは、捕囚の苦しみであり、その原因は先祖にあると考えていたのです。これに対してエゼキエルは、18章20節「子は父の罪を負わず、父もまたこの罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである」と言って、捕囚の苦しみは、今あなた方の罪の結果なのだと指摘するのです。これに対して民衆は25節「主の道は正しくない」と反論するのです。これに対してエゼキエルは改めて罪を指摘して「悔い改めて、お前たちすべての背きから立ち帰れ」「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私は誰の死をも喜ばない、お前たちは立ち帰って生きよ」と神様の言葉を語るのです。
ガラテヤの信徒への手紙5: 20には、肉のわざとして「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉み、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、そのたぐいのものです」と記されています。さらに「このようなことを行う者は神の国を受け継ぐことはできません」と書かれています。なかなか厳しい言葉です。ここまで言われると、誰が神の国を受け継ぐことが出来るかと疑問に思います。しかしエゼキエル書で言われているように「どうしてお前たちは死んでよいだろうか。私は誰の死をも喜ばない」というのが神様の御心です。罪を犯すことはだれでもあります。人である以上避けられないと言っても過言ではありません。しかし大切なことは、それを無視したり否定することではなく、悔い改めることです。立ち帰って神に喜ばれる道を歩むことです。
イエス様は二人の息子のたとえを語られます。父は兄に向って「ぶどう園に行って働きなさい」と命じます。兄は「いやです」と答えますが、後で思い直して出かけました。弟にも同じように命じると、弟は「はい」と答えますが、行きませんでした。これは32節にあるように、バプテスマのヨハネが説いた「義の道」に対してどういう態度をとったかという事です。祭司長や民の長老たち、律法学者やファリサイ派の人々も含めていいと思いますが、彼らは誰よりも律法に詳しく、これを守ることを人々に強く求めていました。神の義の道を説きながら、しかしヨハネの言葉には従わなかったのです。まさに弟の姿です。彼らは自分たちが絶対と考えていましたから、自分たちの律法の理解、律法に対する態度以外を認められなかったのです。自分の立場、自分の権威に凝り固まったがゆえに、バプテスマのヨハネの声には聴き従わなかったのです。これに対して、罪人とされていた徴税人や娼婦たちは、ヨハネに従い罪を悔い改めたのです。徴税人や娼婦たちには誇る権威もこだわる立場もありません。彼らにはむしろゆるしと救いを求める心だけがあったのです。いったん神に背を向けた彼らでしたが、考え直し、思い直して神様の救いを求めたのです。
過去に罪を犯したか、今罪を犯しているかは問題ではありません。自分のかたくなな心を悔い改め、考え直し、思い直して神様の従う道を歩みだすことが大切です。イエス・キリストはそのために十字架にかかられたのです。使徒書の日課であるフィリピが言うように、「キリストは神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であったのです。」イエス・キリストが十字架にかかったのは、私たちが神の道を歩むためです。先ほど引用したガラテヤの信徒への手紙はこう続けます。「例の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」これらは神の道を歩むためにそうしなさいと言っているのではありません、神の道を歩むことを選んだ人には、聖霊が働いてそのような生き方に導かれるという事です。