罪のゆるしと自由
創世記 50: 15 – 21
マタイによる福音書 18: 21 – 35
毎日、ニュースでは凄惨な事件、悲惨な事件が繰り返し流れています。ニュースでは犯人の情報は流れますが、被害者の情報はプライバシー保護のためにあまり流れません。しかしそこには被害者やその家族の激しい悲しみや怒り、憎悪があるはずです。怒りや憎しみにまで発展した感情は、何をもっても抑えることはできません。たとえ犯人に厳罰が下ったとしても、その気持ちを拭い去ることはできないのではないかと思います。それらの気持ちを拭い去れるのは、ゆるしです。しかし、人は簡単には人をゆるすことはできません。被害が大きければ大きいほど、悲しみや怒りが深ければ深いほど、ゆるすことはできないと思います。ゆるすことが出来ないだけでなく、ゆるすことが出来ないそのことが、どこまでもその人を苦しめ続けるのです。
創世記37章から始まるヨセフ物語は、分量的にもそうですが、ストーリー的にもその完成度は類を見ないほど壮大で完璧な物語です。今日の旧約聖書の日課は、そのクライマックスと言ってもいいと思います。長いお話ですので詳しくは述べませんが、兄弟の嫉妬と裏切りによってエジプトに売られたヨセフが、エジプトの王の夢を解き、大飢饉を救います。ヨセフは王に取り立てられて宰相にまで上り詰めます。飢饉によって食べ物に困ったヨセフの兄弟がエジプトに助けを求めてきます。ヨセフはすぐに自分の兄たちだと気づきますが、兄たちは気づきません。ヨセフは兄たちを試すのですが、ついにヨセフ自身が自ら弟であることを涙ながらに告白するのです。そこで今日の日課、兄たちは弟ヨセフに復讐されるのではないか恐れますが、ヨセフは兄たちを赦すのです。それも兄たちが何か償いをしたからではありません。「恐れることはありません。わたしが神に代わることが出来ましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。」ヨセフは、兄たちの償いの故にではなく、神様の愛のご計画のゆえにゆるすことができたのです。
さて、与えられた福音書の日課では、ペトロがイエス様に「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したならば、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と尋ねました。ルカ福音書ではイエス様は、「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら赦してやりなさい」と言われていますので、ペトロはイエス様の言葉を覚えていたのかもしれません。しかしイエス様は、今度は「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と言われるのです。ペトロが七回と言った時、彼の「赦す」という言葉の意味は、我慢するということでした。我慢を回数で考えていたのです。「仏の顔も三度」と言いますから、たぶん私たちもそのように考えると思います。ところがイエス様はそうではありませんでした。七の七十倍、490回です。これは回数とするならば無限です。我慢し続けなさいということになります。しかしイエス様が言われる赦しとは、我慢しなさいというのではなく、完全な赦しを意味していました。赦しに回数を設けるということは、実は本質的には赦してはいないのです。回数を設けない赦しこそが本当の赦しなのです。そんなことはできないと言いたくなります。そうです。私たちの力では完全な赦しは不可能なのです。
そこでイエス様はたとえを話されます。ある王様が、家来たちに貸した金の決裁をしようとしました。1万タラントン借金している家来が王の前に連れてこられましたが、彼は返済できなかったので、王は自分の妻や子、持ち物を全部売り払って返すように命じました。しかし彼は「どうか待って下さい。きっと全部お返しします」としきりに願いました。彼が返済できないことは明らかでした。なぜなら1タラントンという金額は6千デナリオンで、1デナリオンが労働者の1日分の給料に相当しますので、1万タラントンは6千万デナリオン、労働者の賃金の16万年分にあたるからです。しかし王様は彼を憐れに思ってその借金を帳消しにしてあげます。ここで大事な事は、王様はこの家来が返済の可能性があるから赦したのではありません。返済できないことは明らかです。しかし王様はただ憐れに思って赦したのです。このたとえは続きます。王様に借金を赦してもらった家来は、百デナリオンを貸している仲間に出会うと、彼を捕まえて乱暴し借金返済を迫るのです。百デナリオンならば返済の可能性がある額でした。しかし仲間が猶予を求めると、彼はそれを認めず捕えてしまうのです。一部始終を見ていた仲間たちは、このことを王に報告します。そこで王は怒り家来を呼びつけ「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言って、彼を牢役人に引き渡したのです。
このたとえの中で言われている赦しの根拠は、我慢や返済の可能性ではありません。「憐れに思う」ということです。別の言い方をすれば、その人との間に愛を持つかどうかということです。愛こそがゆるしの源泉なのです。先週の日曜日の日課の中で、兄弟に対する罪の指摘や忠告が「その兄弟を得る」ためであることが言われていました。今日の日課の赦しも、相手を兄弟として受け入れることができるか、兄弟としての関係が築けるかどうかが中心なのです。王様は家来との関係を保つために多額の借金を許しました。しかしこの家来は、仲間との関係を保つのではなく、自分の貸した金のためにこの仲間を許さなかったのです。
イエス様がこのたとえを語られた時、「天の国は次のようにたとえられる」と言われています。これはとても重要なことです。赦しは神の国の出来事だからです。それでは人間とは関係のないことか。そうではありません。この神の国の出来事を、神様はイエス・キリストによって私たちに起こして下さいました。神様を神様と思わず、神様の愛に気づかず、神様に対しても人に対しても罪を犯し続ける人間を、そして罪を犯すことによって苦しみ続ける私たちを、神様はそのひとり子を十字架にかけることによって赦し、私たちの心の中に神の国を実現されるのです。それは私たちが何かをして神の国を実現するのではなく、神様がこの悲惨としか言いようのない私たちの世界に無償の愛によって神の国を実現してくださったのです。この神の国の実現によって、この神のご支配を受け入れることによって、人は悲しみや怒り、恨みから自由になります。今まで罪のとりこになっていたものが救われ、真の自由が与えられるのです。