2020年8月30日 説教 松岡俊一郎牧師

「イエス様に従う」

エレミヤ書 15: 15 – 21
マタイによる福音書 16: 21 – 28

冒頭から個人的な話を持ち出して恐縮なのですが、私がルーテル学院大学の社会福祉コースの学生だった頃、どういう状況であったかは忘れたのですが、ある神学校の先輩から「君は孤独というものを知らなければならない」ということを言われました。私はその時、意味がよくわかりませんでした。私は大学一年の時に父を亡くしましたので、悲しみや寂しさ、喪失感というものを知らなかったわけではありません。しかし温かい先生方に支えられ、気の合う友人もたくさんいて、サークル活動に熱心な日々を送っていましたから、みんなと一緒に生きることは素晴らしいことだと日々感じ、確かに孤独を感じることはありませんでした。後々考えることは、社会福祉という働きの対象となる人々は、様々な困難を抱えておられ、苦悩と孤独を感じている人が多いのですから、そこで働こうとする者が、その人々の根底にある気持ちと共感することが出来ないならば、その働きは全うできないのです。そしてそれだけではなく、孤独という事は、人は「ひとり」として生まれ、「ひとり」で死んでいく、人間存在の根本と密接にかかわっていることなのです。つきなみな言葉ですが「人はひとりでは生きていけない」と言われます。しかし人はいやおうなしに孤独を感じる時があり、その孤独さを背負って生きているのです。

旧約聖書の日課は、エレミヤの孤独を表しています。エレミヤは神様からユダヤへの厳しい預言を託されていました。時はバビロン捕囚の時代、ユダヤは神様への背信のゆえにバビロニア帝国の侵略にあい、主だった人々はバビロンに捕囚として捕らえられていました。エレミヤはイスラエルに残された人々に対して罪を悔い改めるように預言していたのです。しかし、エレミヤは人々から受け入れられず、かえって攻撃され続けるのです。日課はその嘆きです。まさにエレミヤはその苦しみから自分を憎み、母親に対して自分をなぜ生んだのかと嘆き、神様からも見放されてしまったと嘆くのです。しかし19節以下、神様は決してエレミヤを見放してはおられませんでした。主に立ち返ることによって、神様はエレミヤをみ前に立たせてくださり、預言を正しく語るならエレミヤを守ると約束されるのです。

さて福音書を見てみましょう。民衆はイエス様のことを預言者と受け取っていましたが、それはただの預言者ではありません。自分たちにふりかかっている弾圧や差別、貧困からくるあらゆる生活の困窮を解放してくれる改革者としてのヒーローを期待していたのです。「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したペトロも、そのように理解していたふしがあります。それを悟られたイエス様は、ご自分がこの後、「長老、祭司長、律法学者からに捕らえられ殺され、三日の後に復活することになっている」、と受難の予告をされたのです。すると、ペトロはイエス様を脇へお連れして、いさめ始めました。イエス様を注意するのですから、ペトロはよっぽど思いつめたのでしょう。マタイ福音書では、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言っています。つまり、イエス様が捕らえられて殺されるなど、イエス様をヒーローとして考えていたペトロには考えられなかったし、あってはならなかったのです。これに対して、イエス様は「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責されます。ペトロが、救い主としての使命に生きようとされるイエス様を理解せず、自分のイメージでイエス様を捉え、そのイメージに縛りつけようとしていることへの叱責でした。十字架の出来事は、神様の人間への愛の究極の出来事です。これを抜きにしては、私たちの救いは勿論、私たち人と神様との関係の回復はなくなってしまいます。この十字架の救いこそが私たちに必要であり、この十字架の前で私たちはすべてを受け入れることしかないのです。

イエス様は弟子達に言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失うものはそれを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」と言われました。

ここにはイエス様を信じ従う者への覚悟が語られています。イエス様に従うとは、自分たちが思い描くような、ヒーローを待ち望み、ヒーローによってすべての問題を解決してもらおうとするものではありません。むしろ一人一人の生活にある重荷をしっかり自分自身で荷なわなければならないのです。それは大変つらいことでもあります。ここには初代教会の抱えていた宗教弾圧と迫害という厳しい宗教事情とキリスト者への励ましも込められています。今の私たちにとっても、自分の生活の課題を負って行かなければならないことには変わりがありません。イエス様を信じれば問題や課題が簡単になくなってしまうとか、解決するとか、短絡的になってはいけません。私たちの生活は依然として変わらずにあるのです。しかし、ただ一つ言えることは、その私たちの負うべき十字架を私たちだけで負うのではなく、イエス様が究極のところで一緒に負ってくださっているということです。それは、孤独と感じていた自分が、孤独ではないことを教えられる瞬間です。

孤独は辛さを一人で背負う事です。自分が一人だと感じる時はもちろん、友達がいても、家族がいても、心の奥底にある悲しみ、寂しさ、辛さ、怒り、不安、そして罪、すべては私一人にのしかかってきます。しかしそれは私一人に、ではなかったのです。どんな時にも神様が共におられ、神様が私を愛してくださっているからです。マタイによる福音書11: 28でイエス様は言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」イエス様が一緒に私たちの重荷を負ってくださり、むしろ私たちが楽に歩めるようにしてくださるのです。もはや私たちはひとりではありません。孤独さを一人で負うのではないのです。「ひとり」であるはずの人間が、私が、神様のゆえにその孤独から解放され、救い出されるのです。そこにはイエス様の生涯の最初と最後に語られる「インマヌエル」、神様が共にいてくださることがイエス様によって実現するのです。