それでも求め続ける
マタイによる福音書 15: 21 – 28
私たちは、心や体の健康が守られ、仕事や人間関係がうまくいっているときは、特別に願い事は生まれて来ません。それ以上を求めようとすると欲になります。願い事が生まれるのは、まずは住む場所、着る物、食べる物がないような命の危機の状態にある時です。そしてそのような時には願いを超えて悲痛な叫びとなるでしょう。ここ数年日本では災害が頻発しています。今現在も多くの方が生活に支障をきたしておられます。まさに衣食住が差し迫った大問題です。また、災害級の猛暑の上に新型コロナウィルスの感染拡大があります。私たちは願い事、求め祈ることにつきることがありません。
今日の福音書は、イエス様がティルスとシドンいう地方の町に行かれた時の出来事を伝えています。ここは地中海に面した海外との取引で賑わっていた港町で、ユダヤ人にとっては古くから外国人の地とされており、イスラエルと同じローマの支配下にあったものの、文化や宗教事情は大きく異なっていました。なぜイエス様がそのような土地に行かれたのかは分かりません。
一行がある家に滞在されていました。イエス様は出来るだけ人目を避けて静かに過ごすことを望んでおられましたが、人々はそれをゆるしませんでした。その中にイエス様の噂を聞いたカナンの女が、娘が汚れた霊に取りつかれて苦しめられているので、悪霊を追い出してほしいとイエス様に願ったのです。詳しいことは分かりませんが、この娘は何かの病気だったかもしれません。当時は、病気は悪霊の仕業と信じられていたからです。いずれにしてもこの女は、どの親もそうするように、娘を抱いてあちこちの医者や祈祷師のことを歩きまわったに違いありません。そしてその度に冷たい仕打ちにあい、高いお金だけをむしり取られ、失望を味わい、苦しみ、もはやすがるもののない状態だったのです。彼女にとって外国人であるイエス様をあえて訪ねてくること、それも多くの人の目をはばからず叫んでいることは、普通では考えられなかったことだからです。
ところがこの女の切実さとは対照的に、イエス様一行の態度は大変冷たいものでした。福音書は「イエスは何もお答えにならなかった」と記しています。無視されたように見えます。弟子達は「この女を追い払ってください。叫びながらついてきますので」と、助けるどころか、厄介者扱いをしています。弟子達は他のところでも群がる群衆を遠ざけようとしたりしていますので、彼らにとってはいつもの行動だったのでしょうが、イエス様の態度もいつになく冷たく、私たちを驚かせます。
イエス様は「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われていますので、なるほどイエス様は御自分の救い主としての使命が、まずユダヤ人にあることを強く意識しておられるがゆえに、この外国人の女に冷たくされたということが分かります。このイエス様の真意を確認しておく必要があります。それは神様が人類の代表として、ひな形としてイスラエルを選び、イスラエルに救いを与えようとされていることです。これはイスラエルが神様に特別に目をかけられるほど素晴らしい民族であったからか。ユダヤ人たちはそう考えていました。特別に選ばれた民族だと。しかしそうではありません。逆です。列強の国々の中で非常に小さく弱い民族でした。そのような民族を神様が選ばれ救いを与えられることは、それは諸外国に神様の救いの真実と偉大さを知らしめることになるのです。イエス様はそのような神様の使命を一番に考え、「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われています。
しかし、理屈は分かるものの、私たちはイエス様の態度を素直に受け入れられない気持ちになります。ところが私たちの気持ちを超えて、ここに信仰による大逆転が起こります。この女はイエス様の冷たい言葉にもかかわらず、あえて「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子どものパン屑はいただきます」と機知ある答えで切り返すのです。小犬と言うと、私たちの感覚ではテーブルの下でじゃれるかわいい子犬をイメージしますが、ユダヤ人にとって小犬とはそのようなものではありませんでした。彼らは羊を飼うにしても牧羊犬など使いませんでしたから、いわば野良犬です。犬とは乱暴で役に立たず、食べ物を求めてうろつきまわり、人の傷をなめ、戦場では死体を食い荒らすような存在です。さらに小犬はいやしい蔑称の意味で語られているのです。しかしこの女はあえて自分をそのようなものとして、イエス様の前に自分をさらけ出し、救いを求めているのです。信仰とは願い事を請求書のように神様に送りつけることではありません。願いがあろうが無かろうが、その願いが聞かれようが聞かれまいが関係なく、自分を神様の前に差し出すことです。
確かにこの女も最初は娘を救ってほしいという直接の願い事がありました。そしてそれがなくなったわけではありません。しかし、それだけであったならば弟子達やイエス様による何重もの拒否にあって、彼女はとうにあきらめて帰っていたでしょう。しかし彼女は願い事以前に、すでに絶望的な状態にありました。もはやイエス様以外に自分を救ってくださる方はないと思っていたのです。ユダヤ人の軽蔑の対象となる外国人である者が拒否されるのは当たり前。自分はイエス様の前に出て堂々と話しが出来るような身分ではない。ただパン屑に等しいわずかな憐れみをいただきたい。そのような願いの中で、彼女は自分を小犬に例えることは何でもなかったのです。そして彼女のこの態度はイエス様の使命を邪魔するものではなかったのです。
この女の信仰はイエス様の心を大きく揺さぶりました。イエス様はしばしば傲慢な律法学者やファリサイ派の人々と対峙されていました。それとは対照的な女の謙遜で強い信仰にイエス様の心は大きく揺さぶられたのです。そして喜んでこの女と娘に憐れみを注がれたのです。
私たちが日ごろ持っている知恵や力、誇りや自尊心は、私たちの間では意味を持っていても、神様の前では何の意味も持ちません。むしろそれらが神様との出会いの中で障壁になることはあるでしょう。イエス様に永遠の命を得るために何をしたらよいかと尋ねた富める青年が、すべての持ち物を貧しいほどに施しなさいと言われたとき、すごすごと帰って行かざるを得なかったように、です。私たちは神様の前に立つとき、ありのままの姿で立つしかありません。弱さや罪深さ、頑なさや脆さ、それらすべてを神様はご存知だからです。いや、私は、むしろありのままで立つことが許されていると考えたいのです。私たちはプライドによって自分を支えていることも確かですが、心の中ではすべてのものを脱ぎ捨てたありのままの姿の自分を認めてほしい、受け入れてほしいと願っているのも確かなことではないでしょうか。人は権力や名声、社会的な地位、知識や経済力に集まってきます。時には人柄を慕って集まってきます。しかしその人柄さえも、その人にとっては、演じているとまでは言いませんが、無理をしている場合があるのです。本当の自分をさらけ出し、それを受け入れてもらうところに真実の平安があります。しかし人間関係の中ではそれはなかなかかないません。しかし、神様はむしろありのままの私たちを喜んで受け入れてくださるのです。その意味で、神様の前にすべての弱さと罪深さを明らかにしてすがるとき、その信仰によって救いと平安が与えられるのです。神様の前にありのままの姿で立ち、素直に願い求める時、神様はそのありのままを受け入れてくださるのです。そこに信仰による救いと平安があります。