神様は待っておられる
イザヤ書 44: 6 – 8
マタイによる福音書 13: 24 – 30, 36 – 43
連日報じられるニュースの中には、目を覆いたくなるような、どう考えても理解しがたい事件がたくさんあります。人間性を疑うような残酷な事件、良心のかけらも感じられないような事件があり、特に高齢者を狙った詐欺事件や幼児に対する虐待事件にはいたたまれない思いがします。人の心には悪が潜んでいることは疑いようのないことですが、それを克服するような良心や理性、善意や愛はないのかと思います。ことは単純ではありません。悪人がいて善人がいるだけでなく、一人の人の心の中に悪と善が内在するのです。
さて、イエス様はお話をされる時、たとえを用いて話されました。13章34節で聖書は「たとえを用いないでは何も語られなかった」とまで言っています。当時の律法学者や祭司たちは難しい言葉を駆使して律法を教えていたのかもしれません。何か難しい話、語り口は、本人たちもそれに酔いしれますし、聞く人もいかにも立派に思えてありがたみを感じたり、聞いている自分も賢くなった気がしたりすることもあります。しかし、もしその話が難しくて理解できなければ、相手に伝わらず、もちろん心にも残らず、話をすること自体無意味になってしまいます。イエス様が誰もが理解することができるように身近なたとえを使って話されたのは、神様の教えを、聞く人の心に届けるために他なりませんでした。とは言っても、今日のたとえ話は、農作業に疎い私たちにとっては、簡単ではありません。麦やそれも毒麦と言われても、ほとんどなじみがないからです。しかしイエス様が話された当時人々にとっては身近な事であったに違いありません。
ある人が良い種を畑に蒔きました。人々が眠っている間に敵が来て、毒麦を蒔いて行きました。つい先日、長野県の飯田市で何者かが農薬に除草剤を混ぜて収穫前のキュウリが全滅するという事件がありました。これと同じように、種がまかれた麦畑に毒麦の種をまいた者がいたのです。芽が出て、成長してみると、毒麦も現れました。そこで実際に農作業をしていた僕たちは、主人のところに行って『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』と言うと、主人は『敵の仕業だ』と言いました。そこで、僕たちが『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、まず、毒麦を集め、焼くために束にし、麦のほうは集めて倉に入れなさい』と刈り取る者に言いつけようと言ったのです。』
天の国についての譬です。天の国とは、神様が支配される世界です。すなわちこの世界です。神様は世界の終わりの時、善い人々と悪い人々を裁かれるのです。ご存じのように、当時のユダヤ教の中にファリサイ派というグループがありました。ファリサイとは「分離された者」という意味です。そして彼らは自分たちを、神様によって清いとされ、救いにあずかれるように選び分かたれたという自負のもとにそう呼んでいたのです。つまりファリサイ派の人々は、すでに救われる者とそうでないものを早々と裁いていたということです。
しかし、誰が善で、誰が悪か、何が正しくて、何が誤っているのか、何をもって判断するのでしょうか。ファリサイ派の人々にとってそれは明らかでした。それは律法とそれに付随する戒めや掟をどれだけ厳格に守るかが基準であり、その判断をするのも自分たちでした。そして彼らはその物差しをもって早々と裁いていたのです。私たちにとっての物差しはなんでしょうか。それは聖書です。聖書はカノンと呼ばれますが、それはまさにものさし、基準と言う意味です。しかし、だからと言って私たちは、ファリサイ派の人々のようにすぐに裁いていいでしょうか。
イエス様はこのたとえを通して、神様のご支配はそんなに裁きを急がれない、どのように育つか待っておられると言われています。毒麦は良い麦と同じように成長します。その根っこが絡み合っていて、成長の途中で引き抜こうとすると良い麦まで抜いてしまう危険がありました。ですから刈り入れの時まで待とうと言われているのです。神様は人を最初から良い麦、悪い麦と選別されません。むしろどのように育つか見ておられるのです。なぜならば、もし最初から分けられているとするならば、悔い改めや改心ということが無意味になってしまうからです。
旧約の日課であるイザヤ書44章は、偶像礼拝に走ってしまった人々に、ヤハウェの神に立ち帰るように預言しています。神様がいかに偉大であり、真の神であるか、偶像は作りものにすぎず、いかに空しいものであるかを書いています。旧約聖書に登場する預言者たちは裁きの預言もするのですが、第一の任務は人々を神に立ち返らせることでした。神様は何度裏切られようとも、それを繰り返し試みられるのです。親が子に裏切られようとも信じ続けるように、神様もまた裏切られても人々を愛し、身もとに帰るようにと働かれるのです。神様が人を創造された目的は裁きのためではありません。創造者である神様と被造物である人が正しい関係を保ち、それ日よって愛と平安に生きることです。そのために神様は、人にご自分のもとに戻ってくることをただひたすら、忍耐強く待っておられるのです。
イエス様もまたそのために救いの道としてこの世界に来られたのです。イエス様は人々の神様に立ち返ることを待っておられます。徴税人ザアカイが悔い改めたとき、「今日、救いがこの家を訪れた」と言われ、喜ばれました。放蕩息子の物語も失くした金貨を見つけた婦人の話も、失われたと思われていた者が、見出された時の喜びが天国においていかに大きいかを述べています。さらに十字架の上でも悔い改めた罪人に対してイエス様は「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われています。このように、み子イエスは、私たちとこの世界がよい麦として育つことを待っておられるのです。
しかし、私たちの今日の世界は、神様を見失った世界です。自分たちに都合のいいように作ったルールや価値観、力という偶像を礼拝し、そこに頼り切っています。戦争、暴力、飢餓、貧困、差別、病気、災害。悲観的な気持ちしか起きないような世界の惨状です。しかしそうであってもパウロは、コリントの信徒への手紙4章4節で「わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」と言っています。むしろ、私たちに求められることは裁きではなく、忍耐強く待っておられる神様の愛に目を向けることです。そのことによって、私たちの命や人生に意味が与えられ、生きる力を与えられるのです。そして良い麦となって崩壊の一途をたどっている家族関係や人間関係、社会の秩序を取り戻すのです。私たちひとりの持つ力は小さいものでしかありません。世界を動かす力とは縁遠いものです。しかしすべては私と神様との関係の回復から始まるのです。神様はその時を辛抱強く待っておられます。