2019年9月8日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

主イエスに従うために

ルカによる福音書 14: 25 – 33

イエス様は人々に向かって語られます。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。」「憎む」、日本語で憎むというのはショッキングなことばです。ことばはあっても、実際に人を憎む経験をされた方はそう多くはないのではないでしょうか。一説によれば、ヘブライ語の憎むということばは、日本語で感じるような強い意味でなく、「より少なく愛する」というほどの意味だそうです。別の解釈では「背を向ける」とか「身を引き離す」という意味があるそうです。これで少しホッとします。

さてイエス様は続けて、「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と言われます。「自分の十字架」というのは、一体何でしょうか。第一義的には、自分が味わっている苦しみ、生活上の課題が考えられます。人は誰でもいろいろな苦しみや課題を背負っています。自分の病気、性格、家族や仕事。そして苦しみから逃げたいと思っています。しかしそんな私たちに対して、イエス様は自分の十字架を負って従いなさいと言われます。ありのままの自分を受け止め、受け入れなさいと言われるのです。これはたやすいことではありません。

自分の十字架についてもう一つ考えられることは、人間関係の中で考えられます。イエス様も「父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹」を挙げられていますから、関係の中で「自分の十字架」を考えることは有益です。苦難を背負った自分から目をそむけるのと同じように、人は関係の中でも、相手の現実から目をそむけるのです。これに対してイエス様は、「父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎」みなさいと言われるのです。これは人に理想を押し付けている自分や苦難に目をそむけている自分に背を向け、離れなさい。そして現実の相手と向き合い、現実の自分と向き合って私に従ってきなさいと言われているのです。

なぜなら、イエス様ご自身がそうされたからです。イエス様は理想的な私たちと向き合われ、救われたのではなく、様々な欠点や苦難を背負った私たちと向き合い、その私たちを救うために十字架にかかってくださったからです。自分の十字架を負う。それは自分の弱さを負うこと、自分の弱さを誤魔化さない、目を離さないことです。イエス様は私たちの弱さを十分ご存知です。もはやイエス様の前で自分の弱さを隠す必要はありません。すでに私たちの弱さはイエス様の十字架にかかっているのです。

その上で、あらためて私たちに自分の十字架を知ることを求められます。そこからが信仰のスタートだからです。自分の決心や自分の力を頼りにした信仰は、自分自身が崩れた時に崩れます。しかし、自分の弱さを知り、そこに働く神様の力と救いを頼りとする信仰であれば、それは崩れることはありません。むしろパウロが「私は弱いときにこそ強い」というように、神様が私たちの弱さの中で働いてくださるのです。

イエス様の弟子としての出発、それは強さからの出発ではなく、弱さからの出発なのです。