2019年5月19日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

イエス様の新しい掟

ヨハネによる福音書 13: 31 – 35

イエス様のご生涯は、ユダヤ教の律法主義との闘いでした。当時のイスラエルは宗教社会でしたから、人々はそれらの律法に縛られ、制約されて生活していたと思われます。実際には、宗教的な権威を持っていた祭司やファリサイ派の権力が強く行使され、律法が本来持っている中心的なメッセージとはかけ離れた形式的な守りが求められていました。イエス様はその形骸化した信仰の姿に着目され、律法主義からは自由な教えを説かれていました。

今日の福音書の日課にも、掟というような硬い言葉が見られます。この掟という言葉は、私たちには現実味のない言葉です。掟は所属するグループを拘束するものです。掟を守ることによってそのグループの一員であることが認められるのです。掟を守らない者はそのグループの一員とは認められないのです。イエス様もそのような意味でで「あなたがたに新しい掟を与える」と言われます。イエス様に属するための掟は「互いに愛し合いなさい」という事です。

イエス様の教えには、確かに自己中心を罪とし、「自己犠牲」ということが底流に流れています。しかしそれはまず神様との関係、神様の事柄として考えなければなりません。そうしないと愛を律法として、クリスチャンであるための新たなルールとしてしまうからです。愛も自己犠牲も他者への奉仕も、神様の愛から生れるものであり、そこから生まれ出るはずのものが、いつでも律法主義の一命題へと変質するのです。

聖書が用いる愛、アガペーは裏切ることのない真実の愛です。弟子たちはイエス様の十字架によって真実の愛とはどんなものかを目の当たりにし、深く心に止めたのです。だからこそアガペーを多用し、ヨハネの第一の手紙4章では「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」というのです。

イエス様はヨハネ15: 13で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」と言われます。そして「友のために命を捨てること、これ以上の愛はない」と言われるとき、そこには神様自らが独り子イエス様を十字架にかけて人々に愛を示しておられるのです。「友のために自分の命を捨てること、これほど大きな愛はない」との言葉は、「わたしのためにイエス様が自分の命を捨てられる、これほど大きな愛はない」と言い換えることが出来るのです。

この愛を知る時、私たちは戒めの呪縛から解き放たれます。いつのまにかクリスチャンが自分たちに課してきた「愛さなければならない」という律法から、人を自己犠牲と他者への奉仕という呪縛から解き放つのです。愛は人を自由にします。個人を尊重します。そして自由な者として、それも神様から愛された自由な者として、神様の愛を証することができ、奉仕することができるのです。

このような神の愛によって自由にされた私たちから生まれ出る行いや生活こそが、神様が求められる実りであり、新しい掟なのです。