言い伝えの向こうにあるもの
マルコによる福音書 7: 1 – 15
私たちの社会や生活にはたくさんのルールや決まりがありますが、その距離感は人それぞれ違います。それらを忠実に守らなければならないと考える人もいれば、適当でいいんだと考える人、あるいはまったく無視する人もいます。それが内容によっては、そして極端になれば、犯罪として処罰されますが、普通のことでは守ったり、守らなかったりします。そしてそれは自分の態度だけでなく、人にも向けられ、几帳面に守る人にとっては、守らない人がすごく気になり、許せないという思いになります。
さて、イエス様がゲネサレト(ガリラヤ湖の北西部・平原)という場所におられたとき、エルサレムからファリサイ派の人々と律法学者がやってきました。イエス様の評判を聞きつけ、批判の材料を探します。そしてイエス様の弟子達の中に汚れた手、つまり洗わない手で食事する者がいることを発見しました。昔の人の言い伝えは、神様の戒めを守るためでした。しかし、それが規定となって行き、律法の精神を忘れ、律法以上に規定を守ることが強調されていったのです。
ファリサイ派や律法学者はイエス様を追求します。これに対してイエス様は、イザヤの預言を引いて「この民は口先では私を敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。」そして「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」と言われたのです。この言葉からわかるように、イエス様は律法の教えを否定されるのではなく、その精神から離れ、新たな戒めを作り、そこに執着していることを問題視されるのです。
よく「ことばがひとり歩きする」とか「規則がひとり歩きする」とか言います。会議などで話し合われたこと、決められたことが、その時の事情や意図を離れて、表面的な文言だけが力を持って判断され使われていくのです。「昔の人の言い伝え」はまさにそのようなものでした。律法学者たちは「昔の人の言い伝え」の意図を離れ、その文言が守られているか否かだけに執心していたのです。
人は罪を犯す存在です。それは罪を取り除き、清めることは、私たち自身では不可能ということでもあります。これらの汚れを清めることが出来るのは、イエス・キリストただお一人です。イエス様は、罪にまみれた私たちを受け入れ、十字架の血によって清めてくださいました。罪のない、汚れのない私たちを愛されたのではなく、汚れにみち罪ある私たちを愛し、その上で自らの血を流し、命を差し出すことによって清いものとしてくださったのです。しばしば引用させていただきますが、ヨハネの黙示録7章では、天において白い衣を着た人たちのことが触れられており、そこでは、彼らは「小羊キリストの血によって洗って白くされた」と記されています。私たちの罪、あなたの罪は赦されています。アーメン。