一人の人の喜ばしい出来事が、他の人々の喜びになるとは限りません。嫉妬を感じたり、自分の立場を危うくすると危機感を感じたり、人の喜びを素直に喜べないことがあります。今日の福音書の日課の、生まれつき目の見えない人がイエスさまよって癒されたという出来事も、人々に波紋を広げました。
目が見えない人が見えるようになったという人の思いを超えた出来事への驚きと疑い、そしてその行為が一切の労働を禁じた安息日に行われたという律法違反。救い主の到来を期待する風潮がありながらも、その事実が起こることを警戒。人々は見えなかった人が見えるようになったという喜ばしい出来事には目を向けず、疑いと不信感だけをあらわにしています。
人々は目が見えるようになった人をファリサイ派の人々の前に連れて来ます。そしてどうして見えるようになったか問いただすのです。彼は「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと見えるようになったのです」と事実だけを答えました。さらに人々は彼の両親までも呼び出し、問いただすのです。両親は、ファリサイ派の人々を恐れ、息子が生まれつき盲人であったことだけを答えます。そして、彼ももう大人ですから彼にきいてくれと追及を逃れるのです。なぜここまで追及されなければならないのでしょうか。聖書学的には、これはヨハネ福音書が書かれた時代の、イエスさまをキリストと告白することへの迫害が背景にあるといいます。いずれにしても、あれやこれや追及するファリサイ派の人々と対照的に、この目の不自由だった人もその両親も、事実だけをもって答えているのです。
イエスさまの行為には理屈はありません。そこにあるのは愛だけです。この出来事のきっかけは、弟子達が目の不自由な人を見かけて、彼が見えないのは彼本人が罪を犯したせいですか、それとも両親が罪を犯したせいですか、と尋ねたことにありました。これに対してイエスさまは、「彼が罪を犯したのでも、両親が犯したのでもない、神の業がこの人の上に現われるためである」とだけ答えられ、奇跡を起こされたのです。神様の愛がこの人に注がれ、そこに神様の業が働いたのです。ファリサイ派の人々はあれこれ理屈を考え、その出来事を否定しようと必死になります。しかし彼は、「あの方が罪びとかどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っていることは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」とだけ答えます。彼はこのあと会堂から追放されてしまいます。しかし、それを知ったイエスさまは彼を受け止め、自分が救い主であることを明らかにされ、彼が救われたことを知らされます。この人々にとっては疑惑の小さな出来事は、もちろんそれは彼にとって大きなことであったのですが、彼はその事実を告白することによってより確かな救いを得るのです。
私たちは今イエスさまの十字架を覚える時にいます。イエスさまの救いは、特定の人の救いの出来事ではありません。世界のすべての人を救いに至らせる出来事です。この出来事を受け入れ、自分の罪の許しのためにイエスさまが十字架にかかって死んでくださったと信じ、告白するとき、その救いは私たちにとって確かなものになります。そしてさらにその告白は、証しとなり賛美となるのです。今日私たちは賛美礼拝をまもっていますが、それはただ賛美歌をたくさん歌うということではなく、イエスさまの十字架の救いを告白し証することであり、神をほめたたえることなのです。