聖霊と理性
ヨハネによる福音書 14: 23 – 29
私はアメリカで、いろいろな教会の礼拝に参加しました。メソディスト、バプティスト、長老派、会衆派、エピスコパル。カトリック、ギリシャ正教。ユニタリアン、ペンテコスタル、クエーカー、メノナイト。モルモン教、エホバの証人、クリスチャン・サイエンス。もちろんルター派も。そこでわかったこと。キリスト教とひと口に言っても千差万別で、教会ごとにばら
ばらな考え方をしています。でもどの教会も、イエス・キリストをまじめに信仰していました。
今日はそんな教会が、聖霊をどのように信じているのか、考えてみましょう。
聖書は、聖霊について教えます。
その箇所はまず、使徒言行録。その2章に、聖霊が弟子たちに降ったと、はっきり書いてあります。ヨハネ福音書の 14 章、16 章も、聖霊についてのべています。
パウロの書簡。たとえばコリントの信徒への手紙二の 13 章が、聖霊についてのべています。
聖霊は、教会の最初のころから、人びとに信じられてきました。やがて、父なる神、その子イエス・キリスト、聖霊、の三つがひとつの神、と決まりました。ニケーア信条やアタナシウス信条です。
ところで、聖書学という学問があります。聖書がいつ、誰によって書かれて、いまのかたちになったのか、研究します。科学的な態度で研究するので、教会の信仰とぶつかる場合があります。
聖書学の言っていることは、たとえばこんな具合です。
まず、イエス・キリストが人びとに教えた。その記録は、福音書に残っている。なかでも、マルコがいちばん古く、そのあとマタイ、ルカの福音書が書かれた。そこから、イエスの言葉を読み取ることができる。
ヨハネの福音書は、ほかの三つと違った、独特の考え方で書かれた。
パウロの書簡はどうか。パウロの書簡は、福音書より早く書かれている。パウロは福音書を見ていない。イエスに会ったこともない。イエスの教えはこうだった、と想像して書いている。
ヨハネ黙示録。これはだいぶ後に書かれた、また違った考え方の書物である。
パウロの想像のはたらきを、聖霊というのかもしれません。
聖霊がはたらくなら、イエスの教えもパウロの書簡も、同じ考え方だと言えます。
でも聖書学は、別々の考え方が書かれている、と言います。
聖書学の言っていることをまとめると、聖書は、書物ごとに別々の考え方をのべている、です。
どういうことでしょう。
たとえば聖霊は、パウロやルカが言い出したことで、イエス本人はそんなことを言っていない、になります。そうかもしれません。でもそれだと、キリスト教が空中分解してしまいます。
もう少し、聖書学の言い分をたどってみましょう。
「主の祈り」。これは、福音書に書いてあるイエスの教えです。たぶん、イエス自身がほんとうに、この通りに人びとに教えたのだと思われます。
教会の信仰のなかで、いちばん古い部分です。
「天の父よ、
あなたの名前があがめられるように。
あなたの王国が来るように。
あなたの意思が、天で行なわれるように、 地上でも行なわれるように。
わたしたちに、今日の食べ物を与えてください。
わたしたちの咎を赦してください。わたしたちもひとの咎を赦します。
わたしたちを誘惑に逢わせず、悪から救ってください。」 マタイの福音書にある通りです。
「主の祈り」は、神を信じるように教えています。聖霊のことは、ひと言も書いてありません。イエスがキリストで、神の子だとも言っていません。
これを、「使徒信条」と比べてみましょう。
「天地の造り主、全能の父である神を信じます。
そのひとり子、主イエス・キリストを信じます。
主は聖霊によって宿り、おとめマリアから生まれ、 ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、 三日目に死人のうちから復活し、天に昇りました。
そこから来て、生きているひとと死んだひとを裁きます。
聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、 身体の復活、永遠の命を信じます。アーメン。」
使徒信条はこのように、父と子と聖霊の三位一体の考え方に立っています。聖霊について、はっきりのべています。だいぶ時間がたって、キリスト教の信仰が整ったあとで、決められたからです。
「主の祈り」と「使徒信条」では、考え方にギャップがあるようにみえます。 教会ではふつう、このふたつは同じことだ、と考えます。そして、「使徒信条」の信仰にもとづいて、「主の祈り」を唱えます。
でも、聖書学を踏まえると、イエスは聖霊を教えなかった、と考える余地もあるのです。
アメリカにはプロテスタントのいろんな教会があります。
クウェーカーは、内なる光(inner light)を重視します。内なる光は、聖霊に似ていますが、聖霊とは違うといいます。
ユニタリアン教会は、聖霊を認めません。イエスがそう教えていないから、というのが理由です。
19世紀には、そうした新手のプロテスタント教会が増えました。聖霊よりも人間の理性を信じ、科学を信じ、天文学や進化論を信じる、リベラルな教会です。
でもこれはキリスト教だろうか。反撥が生まれます。
メソディスト教会。19世紀のアメリカで、爆発的に広まりました。この教会はそのころ、行儀が悪く、礼拝の途中で聖霊が降りてきて、人びとは倒れて床を転げ回りました。この教会の流れを汲むホーリネスやペンテコスタルの礼拝でも、聖霊が降りてきます。
それから、バプティスト教会。この教会は、自分たちの洗礼はイエスの時代から続くもので、洗礼のときに聖霊が降りてきて、人びとは新しく生まれるのだと言います。バプティスト教会は、アメリカでいちばん人数の多いプロテスタント教会になっています。
こうして、理性に従うのか、それとも聖霊に従うのか、の対立が生まれました。 ハーバード大学は二百年ほど前、ユニタリアン教会の大学になりました。聖霊の代わりに理性を大事にし、科学者を育て、アメリカを繁栄させた東部のエリートの大学です。
伝統的なクリスチャンからみると、このやり方は、信仰をないがしろにしているように見えます。不満の声が高まりました。福音派です。
トランプ大統領は、福音派を支持基盤にしています。ハーバード大学をはじめ、東部の大学を攻撃しています。聖霊を大事にする福音派が、理性を大事にするリベラルな教会を攻撃している、という構図になっています。
三年ほど前、『エルヴィス』という映画がありました。エルヴィス・プレスリーの伝記映画です。彼は貧しかったので、子どものころ黒人地区に住んでいました。そして、黒人の教会にもぐり込むと、礼拝の最中に聖霊が降りてきて、みんな熱狂していました。エルヴィスはその体験をもとに、黒人の音楽だったロックンロールを、白人が楽しめるものにしたのです。
この映画をみると、福音派の人びとに聖霊が果たす役割がよくわかります。
理性と聖霊は、対立するしかないものなのか。理性と聖霊の関係を考えてみましょう。
理性はもともと、古代ギリシャのものだったと言います。それがキリスト教に組み込まれ、神の恵みと考えられるようになりました。
理性は、ものを合理的に考えるはたらき。数学も、科学や哲学も、理性の活動です。
理性はどのように始まったか。創世記にはこう書いてあります。神はアダムが、さまざまなものをどう呼ぶか、みていた。その呼び方が、ものの名前になった。神はアダムに言葉を教えていません。アダムは自分で、言葉をうみだし、考えたのです。 リンゴはミカンでない。ミカンはリンゴでない。あるものが同時に、リンゴでもミカンでもあったりしない。言葉はこういう合理的な考え方です。理性は、生まれつきそなわっている、神に与えられた能力なのです。
だから理性は、信仰のあるなしにかかわらず、誰でももっています。
聖霊はどうか。
聖霊は、天の父とイエス・キリストの、両方から出るのでした。
信仰は、聖霊のはたらきです。信仰は、人間がどうにかできるものでなく、神の恵みなのでした。
と言うことは、聖霊は、信仰をもっていないひとにはたらき、そのひとを神に向かわせるものです。聖霊は、信仰のあるなしにかかわらず、すべてのひとにはたらきます。この点、理性と同様です。
聖霊とは何か。聖霊は、動物にははたらきません。聖霊がはたらくのは人間だけです。人間の人間らしい思いや感情、つまり人間の心のはたらきは、聖霊によって可能になっていると考えられます。
聖霊は、感じられたり目に見えたりするものなのか。使徒言行録によると、弟子たちに聖霊が降りてきて、知らない外国語が話せたりする、特別な状態になりました。
自分でも何か変だなと自覚できる。ヘビの舌のような赤いものがチロチロしたとも書いてある。目にも見えるのです。
感じられないし目にも見えない場合、聖霊ははたらいているのでしょうか。弟子たちのところに聖霊が降りてくるより前、聖霊ははたらいていたのでしょうか。
福音派の人びとは、自分たちが聖霊を受けていることを強調します。自分たちだけが聖霊を受けている、と言わんばかりです。ほかの人びとは聖霊を受けていない、と下にみる傾向があります。
私はこう思います。聖霊は、弟子たちのところに降りてきたのが、最初では決してない。その前からずっと、人間にはたらき続けていた。人間が気がつかなくても。
目に見えなくても。
いまでも、聖霊は、人間にまんべんなく降り注ぎ、生命を支えています。知らない外国語をしゃべらなくても、本人が気がつかなくても。福音派の人びとだけが、特別に聖霊をたっぷり受けているわけではないのです。
さて、ルター派は、福音派と違って、聖霊が目立つかたちで降りて来なくても気にしません。人びとの信仰は、聖霊によって支えられているのだと思うからです。また、理性のはたらきを目の敵にしません。理性は神に与えられた人間の能力で、人びとが神の意思に従ってよりよい地上の生活を送るために欠かせないものです。
つまりルター派は、聖霊と理性を、対立するものとは考えないのです。
これは、ルター派のよい点だと思います。
どういうよい点があるか。
イスラム教には、聖霊の考え方がありません。キリスト教は、聖霊を信じます。すると、キリスト教はよいもので、イスラム教は劣っていると感じてしまいやすい。欧米諸国がしばしばイスラムに冷たいのは、そのためかもしれません。自分たちには聖霊が注がれているのに、お前たちはそうではないぞ、と。
でも、そう考えなくてよいのです。聖霊も、そして理性も、信仰のあるなしを問わず、すべての人類に与えられている神の恵みです。人類はひとり残らず、いまそのようにあるがままで、神の恵みを受けているのです。そう考えて、手をたずさえていくべきではないでしょうか。
福音派の人びとは、聖霊を大事に考えすぎて、キリスト教の教会のあいだに、そして人類の間に、分断をもちこむ傾向があります。ルター派は、その反対に、さまざまな教会や信仰のあいだの対話を進めています。
いま私たちは、この教会に集まり、信仰を通じて人類に尽くすつとめを与えられていることの意味を、もう一度思い直してみたいと思うのです。
主の恵みと平安が、皆さまの上に豊かにありますように。