2025年1月26日 説教 鈴木亮二氏 (信徒)

福音のはじまり

ルカによる福音書 4: 16 – 21

今日は信徒礼拝として私が説教壇に立って皆さんに説教をしています。大岡山教会では信徒説教奉仕者の制度が定着していますが、他のルーテル教会では信徒が説教を行うことはほとんどありません。礼拝に牧師が出席できないときは、牧師が事前に用意した説教を信徒が代読するということが行われています。大岡山教会でも、数十年前には礼拝で信徒が話をするときには、説教ではなく奨励と呼ばれていました。私は小田原教会、湯河原教会に説教奉仕に行ったことが何度かあります。教会の入口には、説教題が掲示されているのですが、私の名前の横には「説教」ではなく「奨励」と書かれているのを見て、「ああ、この教会では信徒の説教ということは受け入れられていないのだな」と思いました。
イエス様の時代、ユダヤ教の礼拝は安息日に会堂で行われていました。祈りが捧げられ、聖書が読まれ、聖書の言葉に対する説き明かしの説教がなされる、という形だったようです。会堂長がその人に聖書の巻物を渡すことで、聖書を読み説教をする人を選んでいたようです。この当時、聖書の朗読をするのは特定の個人や会堂の役員だけではなく、会衆の中から選ばれることもあったそうなので、牧師のような立場の人だけではなく信徒も説教をしていたと言ってよいかもしれません。

イエス様が読まれた聖書はイザヤ書の61章でした。ユダヤの人々がバビロンでの捕囚から解放されてエルサレムに戻り、神殿を再建しようとした時代です。捕囚で苦しんでいた人々がそこから戻ったものの、エルサレムでは捕囚時代にすでに移住してきた人々が定着しています。やはり苦しい生活を送らなければなりませんでした。そんなユダヤの人たちを慰めるような文章です。しかしイエス様の説き明かしはそのような内容ではありませんでした。福音書の最後の部分に『「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。』とあります。預言者イザヤの言葉は、イエス様自身の言葉であると宣言したのです。普通なら「イザヤがこのようなことを言ったのは、これこれということだからです」という説き明かしの話になるのが、「この言葉はたった今実現した」という宣言となり、聞いた人たちは衝撃を受けたことと思います。
マタイ、マルコ、ルカの福音書では、最初の部分でイエス様の宣教の始まりが描かれています。マタイによる福音書では、4章17節に『そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。』と書かれています。マルコによる福音書では、1章14節、15節に『イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。』と書かれています。マタイ、マルコの宣教開始における宣言は、「天国、神の国がまもなくやってくる、だから悔い改めて福音を信じなさい」というものです。しかしルカの宣言は少し違います。ルカは、福音とはどのようなもので、どのような人たちに宣べ伝えられるのだ、と宣言しています。

イエス様の宣言は、三つに分けて考えることができます。
一つめは、イエス様ご自身が救い主であるということです。18節を読むと「主がわたしに油を注がれたからである。」と書かれています。「油を注ぐ」という行為は、祭司がその人の頭に油を注ぐことで、その人がこの世にあらわれて人々をすくう指導者、すなわち王であることを示す儀式です。旧約聖書の中には油を注ぐ儀式によって王として立てられたことを記す記述が何か所もあります。救い主のことを旧約聖書が書かれたヘブライ語で書くとメシアになりますが、これはまさに「油注がれた者」という意味です。ハレルヤコーラスで有名なヘンデルの「メサイヤ」というオラトリオがありますが、メサイヤはメシアを英語で発音したものです。ちなみにヘブライ語のメシアは、ギリシャ語ではクリストスという言葉になり、これは私たちがいつも唱えているキリストのことです。イエスキリストというのは、救い主キリストということなのです。
二つめは、イエス様は福音を宣べ伝えるということです。これは19節に書かれている「主の恵みの年を告げる」ということです。主の恵みの年とは、ヨベルの年のことです。ヨベルの年はレビ記25章に書かれているものです。7年を一つの周期とし、7年目は安息の年として負債を免除することが命じられていました。それを7倍した49年、最初の年から数えて50年目は解放の年となり、奴隷は解放されて故郷に帰り、安息の年ですから負債も免除され、取り上げられていた土地も返却されることが命じられています。人々は抑圧されていたものから解放されて自由を得る。まさに福音、良い知らせです。
三つめは、イエス様の福音はどんな人たちに宣べ伝えられるかということです。福音書には、貧しい人、捕らわれている人、目の見えない人、圧迫されている人と書かれています。イザヤ書では神様の慰めはバビロンの捕囚に遭ったユダヤ人が対象でした。捕囚の生活、捕囚からユダヤに戻るために金銭的に貧しくなった人々、まだ捕囚から戻ることのできない人々、捕囚から戻ってきてもすでに移住・定着している人たちから虐げられている人々に慰めを与えるというものです。しかしイエス様はユダヤ人だけではなく世界中のすべての人が福音を宣べ伝える対象です。

イエス様が福音を宣べ伝えるのは、貧しい人にです。貧しい人、と聞くと思い出すのが、イエス様が大勢の群衆に話された山上の説教を皆さん思い出すのではないでしょうか。ルカによる福音書では、6章にあります。イエス様は群衆に語りかけます。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなた方のものである。」。貧しさは金銭的な貧しさだけではありません。確かに、お金がなければ買いたいものも買えずにつらいかもしれません。イエス様は、物質的な貧しさだけではなく精神的な、心の貧しさをかかえる人たちこそ幸いだと言われます。自分か思い描くような毎日が過ごせない、心の中に重くのしかかっているものに捕らわれて憂鬱な日々を過ごしている、誰かが自分のことをバカにしているように思える、何かをやろうと思っても周囲が反対してそれをすることができない。そのような人たちは何か心の支えを必要としている。その支えがイエス様なのです。
イエス様の福音は世界中のすべての人が対象、と先ほど言いました。それは今日の朗読の中にある「目の見えない人に視力の回復を告げ」の部分です。この部分は、イエス様が読まれたイザヤ書61章には書かれていません。イエス様が朗読のときにその言葉を混ぜたのか、朗読の後の説教で話されたのかは聖書を読む限りはわかりません。目の見えない人の視力の回復をするというのは、イエス様が行った奇跡の中にも見られます。しかしここで「目の見えない人」とは単純に視力が失われた人ではないと思います。見えない人というのは神様が見えない人なのではないかと思います。世界中には、キリスト教を知らない、神様の話なんか聞いたことがない、という人はたくさんいます。神様の話を聞いても、そんなことは信じられないと受け入れることができない人もたくさんいます。そんな人たちは神様が見えない人です。イエス様はそんな人たちの目を開き、神様の方を見なさいと語りかけてくださるのです。

なぜイエス様は、神様なんて受け入れないという人々にも福音を宣べ伝えるのでしょうか。それは神様が私たち人間を一人ひとり全員愛してくださっているからです。それはイエス様の生涯を思い起こせばわかります。イエス様は常に弱い人々の隣にいて、慰めを与えてくださいました。イエス様を信じる人が呼びかけると、必ず振り向いて応えてくださいました。そして私たちの負っているすべての罪をイエス様自身が負って十字架にかかって死なれました。十字架の死の後に復活し、弟子たちを力づけて世界への宣教を進められました。
私たちは、教会には来ていても神様の方を向けないときがあります。神様が望むようなことができないことも日々あります。それでも神様はわたしたちを愛してくださっているのです。どんなに何もできない私たちでも、「それでいいんだよ。私のところにいらっしゃい。」と言ってくださいます。私たちはそういってくださる神様を目を上げて見ていきたいと思います。私たちのために十字架にかかり、復活されたイエス様を信じていきたいと思います。