2018年10月7日 説教要旨 松岡俊一郎牧師

真のいのちを得るために

マルコによる福音書9: 38 – 50

人には自分が目立ちたい、自分を偉く見せたい、受け入れられ大切にされたいという思いがあります。これらは人に努力を覚えさせ、成長させるという意味ではとても大切なことです。しかし、人は時々その思いだけが先行して、自分をひとかどのものだと思いあがったり傲慢になって威張ったりするのです。特に人気が出たり、権力を手にしたりするとそのような誘惑と錯覚に陥ってしまします。その意味でイエス様の12人の弟子たちは私たちの代表と見ることが出来ます。弟子たちはイエス様によって弟子として選ばれ、昼夜を問わず一緒に過ごし、誰よりもイエス様と親密な生活を送っていました。そのイエス様は日に日に有名になって、行く先々で大勢の群衆に取り囲まれ尊敬され歓声を浴びていました。そのような毎日を送っていると、弟子たちはなんだか自分までも偉くなったような錯覚にとらわれてしまっていたのです。これは私たちの間にもあります。自分の知り合いに社会的な地位の高い人がいると、自分はその人と知り合いだと言って、さも自分が偉いようにふるまってしまうことがあるのです。

イエス様の狙いは弟子たちの思い上がった心を戒めることにありました。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」(マルコ10:43,44)主イエスの近くにいて尊敬を集め権威を託される者は、かえって仕える者にならなければならないのです。これは十二人の弟子だけに言われることではなく、イエス様のみ言葉をいつも聞き、主のみ名によって洗礼を受けた私たちにも与えられている言葉です。みことばに親しんでいるからこそ、主の名によって聖霊が与えられているからこそ、かえって思い上がることなく、他者を愛し、他者に仕える生活が求められているのです。

先週の説教の中にもありましたが、偉い偉くないの順番から自由になる、解放されること、自分の生き方、考え方の中で決別していくことが大切なのです。その一番の近道が仕える生き方なのです。仕えるとはまさに偉さと真逆のことです。しかしその中に神様が望まれる生き方が隠されているのです。

今日の福音書の日課ではさらに、つまずきを与えないように求められています。わたしたちがつまずかせる可能性のある相手は子どもに限らないからです。社会的に弱い立場の人、信仰的に十分に成長していない人、心や体が弱い人、迷いや孤独の中にある人、いずれもつい私たちがその人の前で強い者として立ってしまう人々のことだと思います。イエス様はそれらの人々のつまずきにならないようにと諭されるのです。つまずきとは何でしょうか。罪を犯させることです。ここでいう罪はむろん犯罪ではありません。聖書が言う罪とは神様から私たちが離れた状態のことです。私たちが弱い立場の人を罪に誘うことです。私たちは露骨にそんなことはしません。しかし気づかないところで罪に誘ってしまう、信仰への道を閉ざしてしまうことがあります。

他者をつまずかせるだけではなく、私たち自身が誘惑に陥ってつまずかないように注意しなさいと言われるのです。罪への誘いは誰にでも忍び寄ってきます。いつも自分の内側から、あるいは外から働いて、神さまから私たちを引き離そうとします。しかし、引き離されないために私たちの心にイエス様の十字架のくさびが打ち込まれました。この楔である十字架は私たちの心を神さまに強く結びつけるのです。この十字架を私たちが信じ大切にするときには、私たちは決して神様から離れることはないのです。