2018年4月15日 説教要旨 (松岡俊一郎牧師)

あの日の記憶

ヨハネによる福音書21: 1 – 14

長く教会生活、信仰生活を送っていっていると、熱く燃える時期と冷めて淡々と過ごす時期があります。それは仕事や家庭などの環境にもよると思いますが、さすがに洗礼を受けたときは、熱く燃えることが多いと思います。誰にも信仰の原点があります。

さて、イエス様を十字架の死で失った弟子達の喪失感は大変大きなものでした。彼らはイエス様と出会って弟子として招かれた時、両親や家族と別れ、それまでの仕事を捨てて従ったのです。そしてそこには大きな希望があったのです。ところが希望であったイエス様が十字架にかかり犯罪者のように殺されてしまったのです。希望を失うとは、将来の目標がなくなるだけでなく、生きる力さえ奪い取ります。そのような状態は、場面は違っても私たちも経験することがあります。

彼らは失意のうちに、エルサレムから故郷のガリラヤに戻ってきました。エルサレムにいると自分たちの身も危うかったし、することもなかったのです。しかし何をするにも気持ちがこもりません。空虚な日々でした。ペトロは自分のもともとの仕事であった「漁に出る」と言いだします。その言葉に力は感じられません。そんな気乗りのしない漁師たちの網にかかる魚はいませんでした。やがて夜が明け始めました。すると岸辺にイエス様が立っておられます。200ペキスとは90~100mぐらいです。薄暗かったこともあったでしょう。弟子達はそれがイエス様だとは気づきません。彼らが復活をまだ理解していなかったからです。復活は人の理解を超えていますし、彼らの落胆は深かったのです。

そこに復活のイエス様は現れます。「子たちよ、何か食べるものがあるか」と尋ねます。彼らは「ありません」と答えます。「舟の右側に網をうちなさい。そうすればとれるはずだ」と言われました。弟子達がそのようにすると、網を引き揚げることさえ難しくなるほど大量の魚が取れたのです。そこでゼベダイの子ヨハネが「あれは主だ」とペトロに言いました。彼場この光景がどこか記憶にあったのです。そうです、それはルカ福音書5章が伝える弟子たちの召命の出来事です。彼らが岸辺で網の繕いをしていると、イエス様がやってきて、沖へ少し漕ぎ出し、網を打つように言われました。彼らはすでに漁は終わり、収穫がほとんどなかったことを告げますが、イエス様の言葉どおりにすると、やはり網を引き揚げることができないほどの魚が取れたのです。そしてあの有名な「今から後、あなた方は人間をとる漁師になる」という言葉を告げて、弟子たちを招かれたのでした。信仰の原点の場所であり、光景です。

弟子達も誰だか分らなかったのにイエス様と気づいた時、たくさんの魚を取ります。これは復活のイエス様と出会った者が、多くの人間を取る漁師となる、宣教者となることを暗示しているともいえます。弟子たちがそうであるように、復活の主との出会いによって人は変えられるのです。私たちはいつどのようにイエス様に出会うでしょうか。劇的な出会いでしょうか、ささやかな日々の中での出会いでしょうか。私たちもイエス様との出会いを求めていきたいと思います。復活のイエス様は、生きる希望を失った者をそのままにしておかれません。復活の主との出会いと信じる信仰は、人に大きな希望を与えます。