説教集

※第三礼拝における説教の要旨を掲載しています。

*** 2008年2月 ***

主の変容主日

2008年2月17日 松岡俊一郎(牧師)

 私たちの暮らしの中には、順番とかランキングというものがついてまわります。先日電車の中でお母さんたちの会話が聞こえてきたのですが、中学生でしょうか。子供たちの成績でクラスが決まるということでした。つまりしょっちゅうクラス替えがあるのだそうです。塾ではそういうことがよくあると聞いていましたが、学校でもそうなんだ、子供たちも厳しい社会に生きているなと改めて思わされました。もっともお母さんたちの不満は、クラスが変わるごとにそのレベルに合わせて教科書も変わるので、その出費が大変だということでした。このように子供たちの社会でもそうですから、大人はもっと大変です。働きの業績、貢献度、指導力によって、ポジションや給料が決まっていきます。うかうかするとはじき出されてしまうのです。皆さん自身が感じておられる通りです。そうなると私たちの価値観も、子供のころからその順位づけということがしっかりと刷り込まれて、幼い友達関係の中でも生まれているのです。
 聖書の中でもそれが見受けられます。イエス様の弟子たちも、自分たちの中で一番偉いのは誰かということが気になっていました。そしてそれは弟子たち本人だけでなく、弟子のお母さんにとっても気になることでした。ついにゼベダイの子ヤコブとヨハネのお母さんが、イエス様のところに来て「王座におつきになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」と願い出たのです。それも「お願いします」ではなく、「座れるとおっしゃってください。」つまり「約束してください」ということですから、このお母さんの必死さが伝わってきます。しかし、残念なことにこのお母さんも弟子たちも少し勘違いをしていたのです。間違っていたのは、このお母さんだけではありません。他の10人の弟子たちも、「これを聞いて、二人の兄弟のことで腹を立てた」と書かれていますから、他の弟子たちも同じ気持ちで、先を越されたと思っていたのです。
 今日の出来事の直前に、イエス様はご自分が十字架にかかるという、いわゆる受難予告をされています。これは三回目に当たるのですが、その前の二回について見てみますと、それが意図的に語られていることがわかります。第一回の受難予告はペテロの信仰告白の後で、このときイエス様はご自分がメシアであることを明かされています。そして受難予告をされるのです。ところがそれを聞いて驚いたペトロは、あわてて否定して、逆にイエス様から「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」といさめられています。第二回目は17:22で、マタイではその直後に神殿税についての議論が挟まれていますが、マルコやルカでは「天の国で一番偉い者は誰か」という議論が受難予告に直接続いています。そして三回目の今日の個所で、受難予告の後に、母は王座にお着きになる時に自分の息子をそばに置いてほしいと願っているのです。このように見てみますと、弟子たちの視点からみると、はっきりとはわからないけれども、いよいよイエス様がメシアとして王座にお着きになる時が近い、そしてその時自分たちはどうなるだろうという不安と期待が入り混じっているように思うのです。そして願わくば偉くなりたい、いいポジションを得たいという気持ちが出てきているのです。先週の福音書の日課である荒れ野の誘惑で、悪魔がイエス様を最後に誘惑したのは、名誉と支配についてでした。この名誉と支配は、私たちの罪の根幹にかかわるものです。それは神様にとって代って自分自身を神の座に置きたいということと一つだからです。
 しかしこのような弟子たちの思いに対してイエス様は「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」と言われています。
 イエス様は最後の晩餐の時に弟子たちの足を洗われました。その時、ペトロは畏れ多いこととして辞退しました。しかしイエス様は「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われています。つまりイエス様の仕えるという行為、出来事、それこそが救いであり、それを受け入れることによって救いの関係が結ばれることなのです。足を洗うという行為は、十字架によって自分の命を私たちのために差し出すということにつながります。
 イエス様にとって受難の出来事は救いのみ業の完成の時です。思いつめた気持ちと様々な胸騒ぎ、緊張でみなぎっておられたと思います。そしてその救いは弟子たちが思いも及ばない、十字架という出来事によって完成するのです。それは人の上に立つというのではなく、徹底したへりくだり、仕えるという仕方で実現するのです。
 イエス様は仕えるという姿勢、仕えるという生き方を私たちにも求めておられます。それは私たちの常識、社会で生きるすべとあたかも逆行するする生き方です。しかし人の命の価値、人生の価値は、決して人の上に立つことによって高められるのではないのです。能力のある人、立派な功績を残した人、大きな働きをしている人、それはとても尊いことで、そのような人々を私たちは素直に立派だと思うし尊敬します。しかし私たちの心を揺さぶる人、感動を与える生き方、人生の意味、命の尊さを教える生き方は、それとは違うように思うのです。仕えることこそが、私たちの心に命を与えるのです。
 私たちに与えられる救いは、力によるものではありません。キリストの徹底的に仕えるという十字架の愛によるものです。この救いを受け入れ、私たちもまたその愛の生き方、仕える生き方に倣いたいと思うのです。

最新の説教集へ

主の変容主日

2008年2月3日 松岡俊一郎(牧師)

 今日の福音書の日課の出来事から一週間ほど前のことです。イエス様は弟子たちに、自分が十字架にかかって死んでしまうとお話になりました。受難予告です。それを聞いて驚いたペトロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことはあってはなりません」とあわててイエス様の言葉を打ち消しました。ところがペトロは「サタンよ、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者」と逆に叱られてしまったのです。イエスさまが十字架にかかって死ぬ、それだけでも弟子たちの間には動揺が走り、それを心配したペトロが叱られてしまい、弟子たちはどうしていいかわからなくなり、このことがあってから彼らはすっかり元気をなくしていました。
 イエス様は、今日、弟子のペトロ、ヤコブ、その兄弟ヤコブを連れて山に登られました。すると突然、イエス様の姿が変わり、顔は輝き、服も光のように白くなりました。これには弟子たちは大変驚きました。でも驚きはそれだけではありません。そこに二人の人が現れ、イエス様と何か話しているのです。弟子たちは、それが民族の偉大な指導者モーセと有名な預言者エリアだと感じました。そこでペトロは心が躍り「イエス様、わたし達がここにいることはとてもすばらしいことです。ここに小さな小屋を三つ作ってずっとここにいていただきましょう」と言いました。しかしイエス様はそれには何もお答えになりませんでした。そうするうちに、真っ白な雲がひろがり何も見えなくなりました。すると声が聞こえてきました。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」突然の天からの声に、弟子たちは恐ろしくなり震えてふさぎこんでしまいました。するといつの間にか雲が晴れ、いつものイエス様が弟子たちの肩に手を置いて、「起きなさい。恐れることはない。」と言われたのです。山を下るとき、イエス様は「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と口止めされました。
 イエス様の旅は、十字架にかかられるためにエルサレムに向います。十字架にかかって死ぬということは、誰にとっても恐いことですし、信頼するイエス様が死んでしまうことは、弟子たちを不安に陥れました。イエス様はそのような弟子たちの不安を打ち消すため、ご自身の神としての姿を現わされたのです。
 旧約聖書の日課には、モーセがシナイ山に上り、神様から十戒が刻み込まれた石板をいただき、民衆のもとに降りてきたとき、その顔が輝いていたと記しています。神様の栄光がモーセを通して民衆に現わされたのです。今日のイエス様の変容の姿もまた神様の栄光を表しています。しかしイエス様の栄光の真の姿は、光り輝くことによって表わされる栄光ではありません。天からの声があった後、イエス様は元の姿に戻っておられました。イエス様は弟子たちが恐れて顔を伏せてしまわないといけないような姿ではなく、顔と顔を合わせて相まみえることのできる姿で、私たちの前に立ってくださるのです。そしてそれは、十字架という愚かな手段の中に現わされます。十字架による罪の贖いこそがイエス様を真実に輝かすのです。
  わたし達は、弟子たちが見たようなイエス様の光り輝く姿を見ることはできません。しかし、イエス様は私たちを救うために十字架にかかって死に、三日目に復活されたということを、聖書を通して知っています。見ることはできなくても、もう知っているのです。知っていて、それを信じるときには、それはもう見たのと同じです。

最新の説教集へ